2020年07月13日

新しい生活様式としての「レジ袋の有料化」


■「レジ袋はどうしますか?」のオンパレード

 全国のショップでレジ袋の有料化が開始され、早くも半月が経過しようとしている。
 食料品店、衣料品店、雑貨店、書店、コンビニ、全てのレジで「ブックカバーはどうしますか?」と同じようなトーンで「レジ袋はどうしますか?」と尋ねられたが全て丁重にお断りした。私の場合、ショルダーバッグに折りたたみができるビニールバッグを入れて持ち歩いているので、それをレジ袋代わりに使用している。

 ちょうどこんな感じのもの。

 

 レンタルDVD店でもレジ袋が有料になっていたが、返却する時に袋が無ければ困るのでレジ袋を買う羽目になってしまった。この辺は想定外の盲点だったが、レジ袋を使用せざると得ないケースが有ることに不自然さを覚えた。
 しかし、なぜか弁当屋ではレジ袋がサービスになっていた。カバンに入れると横向きになって困るだろうから、レジ袋もセット販売(レジ袋込み料金)ということなのだろうか?

■あまりにも中途半端なレジ袋の有料化

 この2週間で都合10回以上、各店のレジを利用して思ったことは、「あまりにも中途半端な制度だな」ということ。
 何が中途半端なのかと言うと、レジ袋の削減を目指した制度であるはずなのに、お金を出せば簡単にレジ袋が買えて使用できてしまうところ。実際に多くの人が躊躇することなくレジ袋を購入していた。

 環境問題が原因でレジ袋を削減しなければいけないということなら、余程の例外は除くとしても、基本的にはレジ袋は買えないようにしなければいけないのではないのだろうか? それなのに現状は、お金さえ払えば、いくらでもレジ袋は使い放題という制度になっている。

 ある程度、高額な商品になると「レジ袋込みでいいです」と言うようなショップもあるのかもしれないが、それだと、環境問題云々は関係が無いということになってしまう。

 どの店のレジに並んでいても環境問題云々は一切語られず、ただ単に「レジ袋を買いますか? それとも買いませんか?」と言っているようにしか聞こえなかった。「今度からレジ袋の代わりのマイバッグを持参してください」と言うような店員がいてもよさそうなものだが、そういう店員は全く見かけなかった。

 これでは消費者に、レジ袋の料金を徴収することが目的であるかのような誤解を与えてしまうのではないだろうか。

■「マイバッグ持参」という新しい生活様式

 以前、この問題で、プラスチック製のストローが刺さったままのウミガメがテレビで紹介されていた。そういう可哀想なシーンを見せられると、「プラスチックは悪だ!」と義憤に駆られる人も大勢いるのではないかと思う。しかし、なぜかその解決策は、「プラスチック製のストローの使用量を減少させなければならない」となる。

 プラスチック製のストローが減少すれば、ウミガメの悲劇も減少するという理屈なのだろうけれど、本当の問題は、プラスチック製のストローの量ではなく、プラスチック製のストローをポイ捨てする人がいることではないだろうか。つまりは、人間のモラルやマナーの問題だ。
 プラスチック製のストローの使用量がどれだけ増えたとしても、使い終わったストローをきちんとゴミ箱に捨てる習慣が守られていれば、そのストローは焼却されて灰になるだけであり、ストローのまま海に流れたりはしない。

 学校の教室で可哀想なウミガメの映像を見て、

  教師A「可哀想なウミガメさんを救うためには、ストローの使用量を減らさなければなりません

  教師B「可哀想なウミガメさんを救うためには、ストローのポイ捨てはしないようにしましょう

 教師Aと教師B、どちらの意見が正しいのだろうか?

 レジ袋もストローと同じであり、ポイ捨てしなければ海を汚す有害なゴミにはならない。
 レジ袋を有料化すれば、レジ袋の総使用量が減少して、海を汚す有害なゴミも減少するという理屈には、「ポイ捨て」という概念が見落とされているのではないかと思える。

 環境省と経済産業省の鳴り物入りで始まったとされる「レジ袋有料化」。これまでのレジ袋の使用を止め、買い物にはマイバッグを持参する。この件は新型コロナウイルス問題とは無関係ではあるが、全く新しい生活様式を我々に強要しているかに見える。それは、マスクの着用と同様、マイバッグの着用を義務付けられているかのようですらある。

 この新しい生活様式に我々は本当に慣れ親しむことができるのだろうか?

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posted by 自由に考える人 at 23:21 | Comment(0) | 環境問題
2019年12月04日

人類が存在しなければ地球は寒冷化するのか?


■COP25で「化石賞」に選出された日本

 マドリードで開催されたCOP25【国連気候変動枠組条約締約国会議】において、日本は地球温暖化対策に消極的な国として「化石賞」(不名誉な賞)に選出されたらしい。

 二酸化炭素の排出量によって地球温暖化が促進されるという意見は、まるでそれが真実であるかのように伝えられている向きがある。
 テレビを観ていると、たまに「南海トラフ地震は100%起こる」と断言している人を見かけることがあるが、ある意味、これと似たようなもので、単なる思い込みだけで真実と決めつけられているような気がする。

 「南海トラフ地震」が発生するというのは、過去の統計に照らせば発生する確率が高いというだけの話であって、必ず起こると断言できるようなものではない。統計的に言えば、南海トラフ以外の場所で先に巨大地震が起こる可能性の方がはるかに高い。
 「地球温暖化」にしても本当のことだと断言できるような事実は残念ながら判明していない。単に「二酸化炭素が増えれば温暖化する」という仮説を参考にしているに過ぎない。

 私が個人的に「地球温暖化説」に懐疑的なのには理由がある。それは以下の一言に尽きる。

 「人類が存在しなければ地球は寒冷化するのか?

 「地球温暖化説」を唱えている人間であれば、この命題に答えなければならないが、おそらく誰も答えられないと思う。

 二酸化炭素の排出量が増えれば増えるほど地球が温暖化すると言うのであれば、二酸化炭素の排出量が減少すればするほど地球の気温は下がっていくことになる。それが「地球温暖化説」を唱えている人間の単純な理論だと思うが、もし、二酸化炭素を排出する生物(主に人間)がいなくなれば、気温が下がるだけでなく、地球は寒冷化するのだろうか?

■「地球温暖化教」という宗教

 人間の活動だけで地球の気温が左右されるというのは、よくよく考えてみると、にわかには信じ難い話である。

 逆に言えば、もし、現在の地球が寒冷化に向かっているのだとすれば、どのような対策があるのだろうか? その場合は「じゃんじゃん火を燃やして、二酸化炭素を発生させてください」とでも言うのだろうか?

 これは冗談ではなくマジな話である。実際に現代の人類が行っていることは、「極力、火を使わずに二酸化炭素の量を減らしてください」と言っているだけなのだから。

 正直なところ、個人的には、そんなことは有り得ないのではないかと思う。たかが数十億人の人間が火の使用量を調整するだけで地球の気温を調整できるなどとは到底信じられない。

 家や工場という建物内の温度は、暖炉やエアコンのように使用する火の量を調整することによって上下させることは可能だろうけれど、この広大な地球全体の気温を人間が使用する火の量を調整する程度で本当に操れるものなのだろうか? もし本当に操れると思うのであれば、それこそが人間の思い上がりであり傲慢な態度だと言えないだろうか?

 もし、近い将来、二酸化炭素が地球温暖化の犯人(主犯)ではなかったと判明するようなことになれば、現在の二酸化炭素の排出量をゼロにするというような計画は、文明を破壊する妄説だったと言われることになる可能性がある。
 21世紀初頭に「地球温暖化教」という間違った宗教が存在したと史実に書き記される時が来るのかもしれない。

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posted by 自由に考える人 at 22:57 | Comment(0) | 環境問題
2019年09月24日

地球温暖化における「真実」と「仮説」


■地球温暖化説は「仮説」

 米下院委員会の公聴会にて、米国滞在中の少女グレタ・トゥンベリ氏が地球温暖化に警鐘を鳴らす目的で、以下のように訴えたらしい。

 「科学者の声を聞き、科学に基づいて団結し行動してほしい

 二酸化炭素による地球温暖化が、本当に科学的に100%間違いのない真実であるのならば、彼女の言っていることは正論かもしれないが、残念ながら、現段階では地球温暖化説は“仮説”の域を出ていない。
 トランプ大統領も地球温暖化には否定的な意見を述べているが、実際に地球温暖化に否定的な考えを持っている科学者は数多い。中には、単なる偽善的な目標だと述べている科学者もいる。

 そして、彼女の言うところの「科学者」とは、必ずしも「全ての科学者」を意味していない。
 ゆえに、彼女の言っていることを正確に書くと以下のようになる。

 「一部の科学者の声を聞き、仮説に基づいて団結し行動してほしい

■「仮説」を妄信することの危険性

 かつて、天動説が信じられていた時代、地動説の唱えたガリレオは異端者として迫害され、悲運な生涯を送ることになったが、彼の死後に一転して、科学的な真実を述べていたことが高く評価され「天文学の父」と称されるに至った。しかしそれは彼に科学者としての類い稀な知見があったからであり、決して仮説や妄説の類いを信じていたからではない。

 では、彼女の場合はどうかと言うと、残念ながら、ガリレオのようにいくとは限らない。むしろ、ガリレオとは真逆になる可能性がある。

 地球温暖化を食い止めようと涙ながらに声を大にして訴えている健気な少女の姿を見ると、まるでジャンヌ・ダルクの如く正義のヒロインか女神のように見えてしまうが、もしその土台となる前提知識そのものが間違っていた場合、取り返しのつかない悲劇の主人公(異端者)を演じることになってしまう。そういう意味では非常に危険な行為に化ける可能性は否定できない。

 現代の科学では、地球温暖化の原因もハッキリしておらず、そもそも本当に長期的に地球が温暖化していくのかさえもハッキリしていない。つまり、二重の仮説になっていることになる。
 そのようなアバウトな仮説に基づく現在の予測に反して、近い将来、地球温暖化ではなく、地球寒冷化に向かった場合、彼女のしていることはトンデモない間違いだったということになる。これは可能性の問題として認識しておく必要がある。

 科学者が仮説を真実と妄信して闇雲に行動することには常に危険が付いてまわる。地球温暖化における真実(「薬」と「毒」)を取り違えた場合、被害を被るのは個人ではなく全人類ということになってしまう。はたして彼女の目にはその危険性が見えているのだろうか?

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posted by 自由に考える人 at 22:33 | Comment(1) | 環境問題