2021年07月11日

マスメディアの存在価値とは?


■「真水」と「泥水」を分けるのは誰か?

 世の中に出回る「情報」というものをグラスの中に注ぎ込んだとすると、その情報は恰も「水」と「油」のように2つの層に分離されていくことになる。「水」と「油」では例えがややこしくなるので、「真水」と「泥水」に置き換えてみよう。

 グラスに注ぎ込んだ水は、徐々に「真水」と「泥水」の層に分かれていく。人間が飲めるのは「真水」の部分であり、「泥水」は捨て去る、それが一般的な人間が行う正しい選択というものだ。

 この「真水」と「泥水」を分けるのは、あくまでも個々人であって、マスメディアではない。神仏でも聖人でもないマスメディアがお節介にも「真水」と「泥水」を仕分けるようになると、人々には正しい情報が伝わらなくなる危険性がある。

 マスメディアが間違った判断をし、グラスの中に注ぎ込まれる水が「真水」ではなく「泥水」ばかりになった場合、人々は「真水」と「泥水」の区別が付かず、少し綺麗な「泥水」を「真水」と思って飲んでしまい健康を害することになるかもしれない。

 そういった悲劇を避けるためには、何が「真水」で何が「泥水」なのかを知ることが何よりも重要になってくる。しかし、「真水」と「泥水」の違いを教えることは難しい。未来が分からない無知な人間には「真水」と「泥水」の違いを前もって明確に区別することは至難の業であり、もし間違った判断をしてしまった場合、その行為自体が悪になってしまう。

■マスメディアの役割は全ての情報を加工することなく開示すること

 ゆえに、そういった間違いを避けるために本当に重要なことは、人間知で「真水」と「泥水」の違いを分けて教えることではなく、「真水」と「泥水」の両方を、隠すことなく見せることにある。
 正しいか間違っているか分からない様々な情報を余すことなく全て開示し、その膨大な情報の中から何が正しくて何が間違っているのかを各個人が考えて判断する。そうすることで、社会全体として、より良い集合知が形成されていく。それが情報化社会の唯一の利点だとも言える。

 しかし、マスメディアが、事前に「真水」と「泥水」を分けて、彼らが「真水」と思える情報のみを人々に伝えるようになると、人々は「真水」と「泥水」の違いを知らずに、考えることもなく、これは「真水」だと思って、どんな水でも飲み干すようになっていく。

 ここで起こる問題は、「泥水」を見たことがない人々は、「泥水」を「真水」と思って飲み干している可能性が出てくるということである。
 古今東西、独裁国家で起こった問題は、まさにこれであり、限られた情報しか与えられない人間は、何が正しくて何が間違っているのかが分からなくなっていく。

 世の中には「真水」しかないと思い込むようになると、「泥水」を「真水」と思って飲み込み、「真水」を知らないまま人生を終えることもある。まさに知らぬが仏。「真水」だと思って飲んでいた水は実は「泥水」だったという悲劇を終生演じることになってしまう。

 マスメディアの役割は、情報を精査することではなく、全ての情報を加工することなく開示することであり、それを放棄した場合、マスメディアの存在価値は失われる。

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posted by 自由人 at 18:47 | Comment(0) | コラム
2019年12月22日

バランスの取れた生活こそが健康の基本


■101歳の現役医師が心掛けている生活

 今朝、新聞を開くと、ある本の宣伝が載っていた。書名は『101歳現役医師の死なない生活』(田中旨夫著)。スマホを使いこなす101歳の現役医師が心掛けていることが箇条書きで書かれていた。少し長くなるが、備忘録として記載しておきたいと思う。(新聞ではなくamazonサイトより一部転載)

 毎日30分の散歩で死ぬまで歩ける体になる
 太陽の光を1日15分浴びて認知症やがんを防ぐ
 昼寝の習慣をつけて、疲れ知らずになる
 毎朝、足腰の柔軟体操をする
 体には軽めの運動が一番いい
 ねこ背になっていないか、常に意識する
 「体によい習慣」を生活に根づかせる
 毎日15種類以上の野菜をとる
 野菜をとって体のサビを落とす
 ベジタブル・ファーストで脂肪を減らす
 粗食ではなく、肉をしっかり食べる
 ヨーグルト、チーズなどの発酵食品を欠かさない
 果物は少量でも毎日食べる
 体の土台となるカルシウムをたくさんとる
 老化を防ぐオリーブオイルをとる
 週一回、薬膳スープで細胞をよみがえらせる
 くつろいでいる時間に緑茶を楽しむ
 甘いものを食べない習慣をつける
 中高年は糖質制限をしないほうがいい
 塩分を減らして素材を味わう
 トランス脂肪酸を含むパン、お菓子、インスタントラーメンは食べない
 加工食品を口にしない
 水を1日に2リットル飲んで血行促進!
 薬は必要最低限に抑える
 体を甘やかすと衰えやすい
 ストレスが少しあるほうが体にいい
 何でも「ほどほど」の感覚で暮らす
 ボケ防止には脳トレではなく、楽しいことをする
 イライラすると損をする
 「今日からあと10年は頑張る」という決意を毎日する
 死ぬまで未知のことに挑戦する
 「できない」ことより「できる」ことに目を向ける

■全てはバランスの問題

 こうやって眺めてみると、いろんな健康本に書かれていることと重複している部分が大半なので納得できる内容だが、ここでは世間一般では意見が真っ二つに分かれている以下の3点に絞って感想を述べてみたいと思う。

○粗食ではなく、肉をしっかり食べる
○中高年は糖質制限をしないほうがいい
○水を1日に2リットル飲んで血行促進!


 まず、「粗食よりも肉が良い」という意見だが、世間では肉を食べると長生きできるという意見と、肉を食べ過ぎると病気になると意見が根強くある。
 一口に「肉」と言っても、赤身の肉、脂肪肉、加工肉など、様々なものが存在するので、ひとまとめにするのは少し乱暴だと思う。

 元気な高齢者には、なるべく肉を食べるようにしている人が多いと言われている。しかし、その肉というのは、おそらく「赤身の肉」のことであり、加工肉はあまり食べないという人が多い。本書にも「加工食品を口にしない」と書かれている通り、加工されていない肉の方が健康には良いということなのだろう。
 無論、これもバランスの問題であり、食べ過ぎてもいけないことは言うまでもない。

 次に「中高年は糖質制限をしないほうがいい」という意見。私も糖質制限経験者なので書かせてもらうと、これは中高年に限らず、あまり糖質制限し過ぎるのは身体に負担がかかると思われる。糖分を摂り過ぎて肥満の人や糖尿病の人が糖質制限するのはプラスだと思うが、普通の体型の人がそれ以上に痩せようと思い炭水化物を一切口にしないというのは行き過ぎであり、あまりオススメできない。自分にマッチした適度な糖質制限でよいと思う。

 極度な糖質制限をすると便秘になる人が多く、栄養のバランスが崩れる(不足する)と、脱毛する場合もあるようなので、栄養バランスというものにも注意した方が良いと思う。
 これもバランスの問題であり、過ぎたるは猶及ばざるが如しというのが正しいと思う。

 最後の「水を1日に2リットル飲んだ方がよい」というのは、何年か前に話題になったことがある。全米で100万部売れたベストセラー『病気を治す飲水法』という本を以前に読んだことがある。非常に興味深い本だったが、万人が1日に2リットルもの水を飲むというのは、ちと乱暴な意見かなと思えた。

 以前、みのもんた氏がテレビ番組の中で、老人に水を毎日2リットル飲むことを勧め、実際に毎日2リットルの水を飲んで死亡した老人の家族が、みのもんた氏を訴えた事件もあったぐらいなので、万人には適用できないと思う。
 やはり、これもバランスの問題であり、日頃、肉体労働で大量に汗をかく人と、一日中ほとんど動かず、発汗もしない人とを一緒にするのは無理があると思う。

 結局、全てはバランスの問題ということに落ち着いてしまったが、健康な生活とは、畢竟、バランスの取れた生活に他ならない。著者も書かれている通り「「体によい習慣」を生活に根づかせる」、それが健康の秘訣なのだろう。


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posted by 自由人 at 11:33 | Comment(0) | コラム
2019年12月08日

BLOGOSコメント書き込み停止にみる諸行無常


■残念なBLOGOSコメント書き込み停止

 来年(2020年)の1月一杯でBLOGOSがコメント書き込み機能を停止するという発表があった。
 BLOGOSの転載記事よりもコメント欄を読むことが楽しみだった者からすると、かなり残念な改変だと思えるが、元からコメント欄を閉じられているブロガーも結構いたので、別になんとも思わない人や、逆に良い判断だと思っている人もいるのかもしれない。

 何年か前までは、BLOGOSのコメント欄にはBLOGOSの会員でなくてもコメントすることができた(と記憶している)。当時は現在よりもコメントする人が多かったが、あまりにも匿名性が高いためか、誹謗中傷的なコメントも散見されるようになり、コメント欄を閉じられるブロガーも増えてしまった。

 そのため、コメントはBLOGOSの会員にならないとできないということになった。匿名性が少し低くなったせいか、コメント欄は以前よりも安定した。しかし、コメント数は大きく減少することになってしまった。

 BLOGOS会員には一人一人会員番号が振られており、現状、新しく会員になった人の会員ナンバーは17万台となっているようなので、会員数は17万人位(退会者も含む)いることになるのだろうか。(単純な連番であればの話)
 そう考えると、コメントする人よりもコメントをしないリードオンリーな人の方が圧倒的に多いということになる。

■コメント数と匿名性の皮肉な関係性

 そんな理由もあって、今回の判断に繋がったのかもしれないが、今後はより匿名性が低いFacebookを利用したコメント欄になるらしい。
 現在でも「BLOGOS Facebook」でググれば、Facebookのコメントは読むことができるのだが、コメント数はそれほど多いわけではないようだ。
 BLOGOSの「支持する」よりもFacebookの「いいね」の方が多くなる傾向にあることも、今回の判断に繋がっているのかもしれない。

 コメント数と匿名性の高さは反比例の関係にあることは否定できない。皮肉なことに匿名性が上がれば上がるほどコメント数は増える(閲覧者も増える)ことになる。2チャンネル掲示板にあれだけ多くのコメントが付くことがそのことを如実に証明している。
 営利団体としては匿名性が高ければ高いほどメリットが高くなるが、営利団体としてはリスク回避のために匿名性を低くしていかざるを得ないのかもしれない。

 ネット社会は諸行無常、そんな感想を抱いた。
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posted by 自由人 at 10:52 | Comment(0) | コラム
2019年07月29日

「情報弱者」という言葉の定義を考える


■「情報」に「強い・弱い」は妥当か?

 前回の記事で「情報弱者」についての考察を書いてみると、案の定、様々な反論を頂いた。
 「情報弱者」とはネット検索によって能動的に正しい情報を得ようとしない人のことを指すという反論が散見された。要するに、情報リテラシーの問題ということになるのだろうか。

 現状における「情報弱者」の定義はその通りなのだろうけれど、頭を1度ゼロクリアして「情報弱者」という言葉を考えてみると、少し疑問点が生じると思う。

 「情報弱者」とは、その言葉通り「情報に弱い者」という意味になるが、そもそも情報には2種類ある。それはもちろん、「正しい情報」と「間違った情報」のことだが、この言葉を補えば、以下の4つのパターンがあることになる。

 ●正しい情報に強い者
 ●正しい情報に弱い者
 ●間違った情報に強い者
 ●間違った情報に弱い者


 ここで少なからず違和感を感じるのは、情報に対して「強い」とか「弱い」という言葉を使用することは本当に正しい使い方か?ということである。
 本来であれば、情報に強いか弱いかではなく、情報識別力が高いか低いかと言った方がピッタリすると思う。

 当初、「情報弱者」とは、ネットで情報にアクセスできる人とできない人の差を指した言葉だったと思うが、いつの頃からか、その情報にアクセスできることを前提として、その情報が正しい情報か間違った情報かを分別できない人のことを「情報弱者」と呼ぶようになった。

 例えば、偏った新聞やテレビの報道をそのまま鵜呑みにしかできない層を「情報弱者」と呼ぶ向きがあるが、その場合は「情報識別力が低い人」と言うのが正しいと思う。思想的なものを含まないなら「情報リテラシーが低い人」と言い換えることも可能かもしれないが、「情報弱者」にも段階があり、その辺が曖昧になっているため、無闇矢鱈に「情弱」という言葉を使用するのは可笑しいという遠回しな皮肉を書いたつもりが、あらぬ誤解を招いてしまったらしい。

■「情報識別力」が「高い・低い」が正しい

 ある保守系の言論人の批判を書いたのも、普段、どれだけ情報の正しさを識別する能力を有している人物であろうと、識別するべき情報を精査せずに論評してしまうと、その人物はいとも容易く情報弱者(情報識別力が低い人)になってしまうという皮肉を書いたまでのことで、別に保守系の論客を否定しているわけではない。

 個人的には、情報識別力というのは、知識量とはあまり関係がないと思っている。たとえ1万冊の書物を読んだ人であっても、その人物が必ずしも情報識別力が高いとは限らないし、本をほとんど読まない人でも情報識別力が高い人は大勢いると思う。読書はその能力を高める役目を果たすツールには成り得ても、それが万人に適用できるわけでもない。

 情報識別力の高い人と情報識別力の低い人の違いは、結局のところ、物事の本質を見抜く鑑識眼の高い人と低い人の違いでしかないと思う。どれだけ高学歴であろうと、どれだけ知能指数が高かろうと、鑑識眼の高低とはあまり関係が無いと思う。現実を見ても、実際にそうなっていることは誰もが認めるところではないだろうか。

 情報識別力が高いというのは、直感が鋭いとか、洞察力が鋭いとか、そういう類いの能力の1つだと思う。如何に論理的であっても、その論理自体が嘘である場合は見抜けない人が出てくる。肝心なのはその論理の嘘まで見抜ける能力が有るかどうかが問われることになる。だからベクトル的には、能力が強い、能力が弱いではなく、能力が高い、能力が低いとした方が正しい使い方だと思う。

 つまり、本来の言葉の定義から外れて「情報弱者」という言葉自体が拡大解釈されて独り歩きしているということ。それが結論になる。
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posted by 自由人 at 00:09 | Comment(0) | コラム
2019年07月28日

現代における「無知の知」【全ての人間は「情報弱者」】


■曖昧な「情報弱者」という言葉

 現代では既に市民権を得た言葉に「情報弱者(情弱)」というものがある。誰でも無料で広範な知識が得られるネット情報社会になってから、頻繁に耳にするようになった言葉でもある。
 毎日のように、多くの人が、事ある度(自分より知識が無いと思う人を見つける度)に「情弱」という言葉をドヤ顔で語るシーンを目にするようになったが、「情報強者」と「情報弱者」との間にはたしてどれだけの差が有るのだろうか?

 ある特定の分野(例えば、コンピューター知識、医学知識)における個人の情報差は埋め難い程に開いているのかもしれないが、ジャンルを分けなければ総情報量には埋め難い程の開きは無いかもしれない。ネット情報社会以前に、これだけ膨大な知識が氾濫している人間社会で、全てのジャンルにおいて情報量が勝っている人など皆無に等しいと言える。

 例えば、会社の先輩と後輩を比べても、仕事の知識量は先輩の方が勝っている場合があったとしても、その他の趣味などの種々雑多な情報量を比べてみると、必ずしも年長者が勝っているとは言えない。ジャンルによっては、その関係性は全く逆の場合も有る。

 現代社会に溢れる膨大な知識の洪水の前には誰もが無力であり、誰もが情報弱者だと言える。現代における「情報強者」「情報弱者」とは、ある特定のジャンルに限って使用することが許される言葉でしかないのかもしれない。

■医療に限定した「情報強者」論

 現代は、専門の学者よりも知識を持った一般人が大勢いる時代とも言われている。先程述べた医学知識等についても医者よりも詳しい一般人もいる。(ここでいう「医学知識」とは専門の医療用語のことではなく病気を治す知識のこと)

 一口に医療と言っても内科・外科・整形外科・神経科・泌尿器科・耳鼻科等々、様々な区分け(ジャンル)があり、1人の医者が全ての知識を有しているわけではない。分野の違う医療知識はほとんど皆無という医者も大勢いる。その証拠に処方する薬の副作用がバッティングしても分からないというケース(所謂、ポリファーマシー※問題)も多々ある。
 実際に私の知人も、内科で処方された薬と神経科で処方された薬の相性が合わず思わぬ副作用が生じたケースがある。そういう場合は、薬の専門家である薬剤師にでも相談しなければ、副作用の原因が判らない。

※服用する薬剤が多いことで発生する薬物有害事象(副作用)

 全てのジャンルにおいて医学知識が勝っている万能の医者など存在しない。内科における「情報強者」、外科における「情報強者」がいたとしても、全ての医療分野における「情報強者」というのは存在しない。

■現代人にも当て嵌まる「無知の知」

 医療に限定した例え話を書いてみたが、人間社会における「情報強者」理論もこれと同じ理屈であり、特定の分野における「情報強者」は存在し得ても、全ての分野における「情報強者」は存在しない。

 より大きな視点で観れば、全ての人間は情報弱者でしかない。そのことを認識せず、無闇矢鱈に「情報弱者(情弱)」という言葉を用いて他人を批判することは、自らが本当の情報を知らないことをアピールしているようなものかもしれない。

 先日も、ある著名な保守系の言論人が、畑違いの医療の話を書いている本を読んでみたが、全く見当外れなことを書かれておりゲンナリしてしまった。参考資料を調べもせず(調べても解らない場合もある)、思い込みやイメージだけで自らの専門分野以外のことに口出しするとボロが出る典型を見た思いがした。

 ソクラテスが説いた「無知の知」とは現代におけるドヤ顔知識人にもピッタリと当て嵌まる言葉なのかもしれない。
 ソクラテス風に言うなら、自らが「情報強者」であると自惚れた時に、その人物は既に自らを「情報弱者」と認識している人以上に「無知」なのである。

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posted by 自由人 at 00:17 | Comment(0) | コラム