2021年10月08日

スペイン風邪の「謎」と「疑惑」


■「謎の病」としてのスペイン風邪

 昨年、新型コロナウイルスの報道が始まった頃を振り返ってみると、当時は、主に老人(基礎疾患を持つ老人)だけが肺炎で死亡する流行り病だと伝えられていた。

 例年流行するインフルエンザは全年齢層対象で、主として免疫力が低下している人間が死亡するケースが多い流行り病だということを考えると、新型コロナウイルスは、老人だけを意図的に狙ったかのような不自然なウイルスだった。

 不自然さという意味では、100年前に流行したスペイン風邪も、戦争に行く成人だけを狙ったかのような流行り病だった。風邪と言われているにも拘らず、低年齢層や老年齢層はスペイン風邪に罹患せず、健常な成人だけが病に罹るという、あまりにも不自然極まりないウイルスだった。

 第一次世界大戦中のことだったので、スペイン風邪の影響で戦争が早く終結したというプラスの側面はあったとはいえ、スペイン風邪で死亡した人はあまりにも多かった。実際に戦争が長引いていたとしても、スペイン風邪ほどの犠牲者数は生まれなかったかもしれない。

 当時の世界人口20億人弱の内、一説では死亡者が1億人に上ったとも言われているので、実に5%もの人間が死亡したことになる。果たして、ただの風邪でそこまでの人が死亡するものなのだろうか?

■スペイン風邪は「薬害」だったという疑い

 第一次世界大戦で死亡した人は1000万人程度と言われているので、スペイン風邪は、その10倍の死亡者を出したことになる。果たして、戦争でそこまでの犠牲者が出ただろうか。

 まるで戦争を止めるためにタイミングよく流行したかのような病だったということもあり、スペイン風邪を天の采配のようなものと捉える向きもあるようだ。私も以前まではそんなこともあるのかな…と思っていたが、より詳しく調べてみると、どうやら、当時のワクチン接種と無関係ではないらしく、直接的な死亡原因はスペイン風邪ではなく、ワクチン接種だった疑いが濃厚であることが分かった。

 海外の戦地で細菌性の病気に罹らないようにと戦争に行くアメリカの成人男性を中心に、ワクチン接種を行ったことで多くの成人男子が病を発症し死亡した疑いがあるらしい。なるほど、そう考えれば、当初、健常な成人男性だけがスペイン風邪に罹り死亡したという謎も理解できる。

 ワクチンだけでなく、その後に配布されたアスピリンが原因だという意見もあるようだが、いずれにしてもスペイン風邪の実体が薬害だったということであれば、まさに歴史的な不都合な真実だ。もしかすると、人類は100年経っても同じ過ちを繰り返そうとしているのかもしれない。

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posted by 自由人 at 23:28 | Comment(0) | コラム
2021年10月04日

「死ぬまで気付かない」と「死んでも気付かない」の違いとは?


■「死ぬまで気付かない」の意味

 「馬鹿は死ななきゃ治らない」という言葉がある。禁句のようなイメージがする言葉だが、意外にも辞書にも載っているメジャーな言葉でもある。

 この言葉をそのまま使うと品も芸も無いので、ここでは「死ぬまで気付かない」という言葉に簡略化することにする。

 「死ぬまで気付かない」ということは、換言すると「死ねば気付く」と言っていることになる。ということは、現世だけでなく死後の世界を認めた上での言葉ということになるわけだ。

 「死ぬまで気付かない」=「死ねば気付く」

 人間が死んだ後、帰るべき世界(あの世)が有るという前提で話を進めると、例えば、生前に重い罪を犯した罪人が死ねば、自らが犯した罪深さを悔いるということは有り得るだろう。そういう意味においては「死ぬまで気付かない」=「死ねば気付く」というのは当たっていると言える。

 この世での肉体を被って無意識に悪人を演じていた人も、肉体を離れてあの世に召されると、元々の赤子のような善良な心が表面化し、この世においての間違った行為(例:人を傷付ける行為)を反省するということは有り得ると思う。

 よく、地獄の閻魔様が人間の罪を裁くと言うが、それはあくまでも比喩であり、本当は自らの善良な心が自らの悪に傾いた心を矯正しようとする。それは、人間の精神(魂)に備わった本能のようなものであり、両極端に偏り、歪に歪んだ心は自ら修正を試みるようになる。
 それが、仏教的には「カルマの法則」と呼ばれるものであり、「自らが蒔いた種は自らが刈り取らなければならない」という言葉の意味するところでもある。

■「死んでも気付かない」の意味

 さて、今度は、「死んでも気付かない」場合を考えてみよう。
 これを考える上では、「陰謀」というものをベースにすると解りやすいかもしれない。

 この現実社会が、一部の権力者の陰謀によって、多くの人々に気付かれないまま、「善」と「悪」がひっくり返っているかのような社会が展開していた場合、そのマトリックスのような世界の中にいる人間は、知らないうちに「善」と「悪」を履き違えている可能性がある。

 「善」だと思って行っていた言動が実は「悪」で、「悪」だと思っていた言動が実は「善」だったというケースも有り得るということになる。
 例えば、人の命を助けているつもりが、実は人の命を奪う行為に加担させられていたような場合など。

 その場合、前例のように「善」と「悪」を簡単には分けることができない。陰謀を知った上で罪を犯していた者は、自分で「悪」だと認識することができるが、陰謀に気付かずに騙されていた側の人は、自分が正しい行為を行っていたのか、それとも間違ったことを行っていたのか、生きている内は当然分からないが、死んであの世に帰っても分かるという保証はどこにもない。

 つまり、この現実社会が一部の権力者の陰謀によって間違ったルールで管理され、運用されていた場合、「死ぬまで気付かない」ではなく、「死んでも気付かない」ということが有り得るということになる。

 こんな掴みどころのない話を書いても、現代社会は陰謀など全く無い清然とした社会だと思い込んでいるような人には、何を言っているのかチンプンカンプンかもしれない。それこそ、お決まりの台詞「陰謀論だ!」でお終いかもしれない。
 しかし、現代社会は陰謀だらけのマトリックスのような社会だということに気付いている人には理解していただけるのではないかと思う。

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posted by 自由人 at 22:13 | Comment(0) | コラム
2021年08月14日

人を疑うことよりも愚かな行為とは?


■「オレオレ詐欺」で考える「疑心、暗鬼を生ず」

 「疑心暗鬼」という四字熟語がある。略さずに言うと「疑心、暗鬼を生ず」となり、その意味するところは、「疑いの心を抱くと、ありもしない鬼の姿が見えるほど恐ろしくなる」という心の状態を示している。

 仏教的に「疑心」というものは、人間の戒めるべき煩悩の心の1つだと言われており、現代的にも「猜疑心」というものは克服するべき悪しき心の代表格という位置づけになっている。

 しかし、これも時と場合によるのではないかと思う。
 例えば、悪い人間が人を騙そうと画策している時に、「疑心」は戒めるべきなどと言っていると、どんな単純な詐欺にもコロッと引っ掛かってしまうことになる。

 具体的に言えば、「オレオレ詐欺」の電話がかかってきた場合、自分の子供や孫の声と少し違うと思っても、子供や孫を疑ってはいけないという戒めが優先されてしまうと、まんまと騙されて、お金を巻き上げられてしまうことになる。

 その場合、「疑心」を抱くことは悪になるか?というと、もちろん、ならないだろう。悪いのは、人を騙そうとしている側の人間の心であって、その悪人を疑うことではないからだ。

 「疑心」を抱くことは絶対的な悪ではなく、時と場合によることは、こんな単純な例えでも解ることである。

■「善意」と「疑心」の皮肉な関係性

 では、「善意」を持って接触してくる人間に対してはどうだろうか?

 「この株を買えば儲かりますよ」とか、「この薬を飲めば痩せますよ」とか言ってくる人に対して「疑心」を抱くことは悪だろうか? これもケースバイケースであり、「疑心」を抱くことは必ずしも悪にはならない。
 この場合、重要なことは、相手が「善意」の心を持っていたとしても、その人物が語っている言葉は真実かどうかを見極める能力が重要となる。たとえ、相手が善意で語っていたとしても、相手の認識不足により間違ったことを勧めている可能性がある。

 相手の人間性を疑うことは悪に成り得ても、相手の言っていることを疑うことは必ずしも悪にはならない。このことは、相手が間違いを犯さない完全無欠の人間でない限りは成立する。

 もし相手が善意で間違ったことを勧めていた場合、それを見抜けない場合は、あなたも相手も悪を犯していることになる。間違ったことを信じ込み、その間違ったことを家族や周囲の人間にまで拡散してしまった場合は、尚の事だ。

 ゆえに、疑うという行為は時には重要であり、必ずにも悪にはならない。本当の悪というのは、疑うことではなく、真実を見抜けないことだからである。

 最悪なのは、人一倍「猜疑心」が強いにも拘らず、真実を見抜けない人だと言えるだろうか。こういう人は、疑いの心と己の無知から、間違ったことを世間に広め、悪の拡大再生産を続けることが生業になってしまうので、最も愚かな行為を行っている人物ということになる。

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posted by 自由人 at 13:34 | Comment(0) | コラム
2021年07月24日

現代陰謀論考(「陰謀論」のこれから)


■誤解されている「陰謀論者」の特徴

 少し前に「陰謀論を信じている人は低学歴」という話が話題となったことは記憶に新しいが、昨年にもアメリカの心理学研究チームが、陰謀論を信じやすい人には、次のような共通する特徴があると発表して話題になったことがある。

 ○衝動的で自信過剰な人
 ○孤独を好み不機嫌で短気な人

 随分と単純で都合の良い解釈であり、当たっている可能性があるのは「孤独を好む」ぐらいかな…というのが正直な感想だった。少数派は必然的に孤独にならざるを得ないという意味で。

 私自身、一般的に言うところの「陰謀論者」ではないが、最近は「陰謀論」に対して少し見方が変わってきた。
 これまで世の中に出回っている陰謀論は3割位が真実で7割位が嘘だと思っていたが、その割合が逆転し、今では6割位が真実で4割位が嘘程度に変わっており、少し立ち位置を修正しなければいけないかなと思っている。

 今の世の中では、「陰謀論」という言葉を使用した人物が見事に「陰謀」に嵌っているというパターンが多く見られ、誰かが「陰謀論」という言葉を発すると、突如として思考停止に陥り全てを「陰謀論」だと信じてしまう人が多いように思う。

 そう考えると、先の「衝動的で自信過剰な人」「不機嫌で短気な人」というのは、「陰謀論者」の特徴ではなく、「陰謀論者」を否定している人の特徴ではないかと思える。

■「陰謀肯定論者」と「陰謀否定論者」

 現代では、陰謀が有ることを疑う論者のことを「陰謀論者」と呼んでいるが、より正確に言うなら「陰謀肯定論者」ということになるのだろうか。

 では逆に、陰謀が無いと頭から信じている人のことを何と言うのだろうか?

 先の言葉の反意語として言うなら、「陰謀否定論者」となるのだろうか。

 では、「陰謀肯定論者」と「陰謀否定論者」の違いとは何だろうか?

 よく「性悪説」と「性善説」の違いだと言う人がいるが、実際の世の中を見回してみると、必ずしもそうはなっていないので、これは違うと思う。実際に「陰謀肯定論者」と「陰謀否定論者」を観察していると、そこには共通する、ある1つのキーワードが垣間見える。それは「疑う」という行為である。

 まず、世の中にある常識そのものを疑う姿勢が有るか無いか、またはそういった姿勢を持てるかどうか、そして、もし自らが常識だと信じてきたものが間違いだと気付いた時に、これまでの常識を捨て去る勇気と素直さが有るか無いか、それが「陰謀肯定論者」と「陰謀否定論者」を分ける大きな違いだと思う。

■時代は「陰謀論」の正しさの証明に移行している

 「陰謀肯定論者」といっても、生まれた時から「陰謀肯定論者」であるわけではない。人間誰しも生まれた頃は天使のように無邪気で「陰謀」なんて意識していないので、人生のある時点で「陰謀」に気付いたのか、「陰謀論」に興味を持ったかのいずれかだと思う。

 では、「陰謀否定論者」というのはどうかというと、これまで「陰謀」というものに然程興味を持つ機会がなかったということが言えると思う。あるいは「陰謀論」に触れる機会が有ったとしても「こんなのは嘘だ」と十把一絡げで否定した人なのかもしれない。

 しかし、世界の歴史をつぶさに観察すると、この世界は嘘に塗れており、実は大小様々な陰謀が渦巻いている社会であることを発見するに至る。少しでもそういったことを知り得た人であれば、この世の中に陰謀が無いというのは嘘であり、現実を知らないお花畑論者にしか見えないと思う。

 では、「陰謀肯定論者」が全て正しいのかというと、そういうわけでもない。

 重要なことは、本物の「陰謀論」と偽物の「陰謀論」を見分けることであり、その正確さがこれからの社会における1つの学問的な評価基準になるのではないかと思う。

 時代は既に「陰謀」の有る・無いではなく、「陰謀」は有るという前提での、各「陰謀論」の正しさの証明に移行している。

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posted by 自由人 at 18:19 | Comment(0) | コラム
2021年07月16日

「潜在意識」と「バラード」の関係性


■名曲が「潜在意識」に及ぼす屈折した影響力

 よく「潜在意識には嘘が通用しない」と言われる。これがどういう意味かは知る人ぞ知る話であり、万人が理解できる話ではないのかもしれないが、ブログ読者の裾野を広げるという意味では、たまにはこういう風変わりな話も書いた方が良いのかもしれない。

 今回のお題は「潜在意識」と「バラード」の関係について。こんな話を書いている人は誰もいないかもしれないが、ここ何年かで気付いたことを素直に書いてみたいと思う。

 毎年、冬になると山下達郎の代表曲「クリスマス・イブ」が街中で流れる。私も学生時代、山下達郎のファンだったので、この曲の影響力はよく知っている。

 「きっと君は来ない、ひとりきりのクリスマス・イブ、Silent night, Holy night

 まさに芸術的なメロディに乗った曲であり、誰もが口遊みたくなった経験があるのではないかと思う。しかし、ここで問題として取り上げるのは、曲ではなく、そのセンチメンタルな言葉である。上記の言葉を心底良いなあと思い、何度も繰り返し口遊むようになった場合、その人物の潜在意識には、こういう風に伝わることになる。

 「恋人がいないひとりきりのクリスマス・イブは良いものだ

■「表面意識」と「潜在意識」のパラドックス

 表面的には、恋が始まる前段階の心境を切なく綴った歌詞であったとしても、潜在意識的には、その恋が実らないことが切なく素晴らしいことだというニュアンスで伝わることになる。

 解りやすく言うと、あなたの潜在意識下(本心)では、恋人が現れないことを暗に望んでいることになるということ。

 この表面意識と潜在意識のパラドックスを理解できる人が果たしてどれだけいるのか分からないが、誤解を恐れずに書かせていただいた。

 例えば、しみじみとした感傷的なバラード曲で人気を博していた有名な歌手が、そのバラード曲のような哀しい人生を実際に演じてしまったという例もあった。そのニュース報道を観て、バラード曲が潜在意識層にまで強烈に刷り込まれると、本当に現実化するのだな…と少し恐くなったことを覚えている。

 そんな法則性が有ることを露ほども知らずに悲劇の主人公を演じてしまった当の歌手には気の毒で申し訳ないが、こういったニュースも今回の考察を得る1つのヒントになってくれた。

 別にバラード自体を問題視するつもりも、危険だと言うつもりもないのだが、潜在意識に影響を与えるほどセンチメンタルな歌に心酔してしまうと、人生にまで影響を及ぼす可能性が有るということだけは心の片隅に置いておいても損はないと思う。



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posted by 自由人 at 23:07 | Comment(0) | コラム