2019年11月02日

「首里城」火災が暗示するもの


■「首里城」炎上シーンで見えた錯覚

 世界遺産として有名な沖縄の首里城跡に復元された「首里城」の主要な建造物がほぼ全焼した。
 政府は、再度、復元(修復)に全力を傾けるとのことだが、これまでの復元に30年間もかかったわけだから、再び再現されるのはまた30年も先になるのだろうか。そう考えると気の遠くなるような話でもある。

 芸術家や職人が最も嫌がる仕事は、1度作って完成したものをすぐに壊して、また同じものを作ることであるらしい。となると、「首里城」の再復元にも同じことが言えるのかもしれない。

 テレビで「首里城」が炎上している異様な光景を眺めていると、不謹慎ながらも、ふと、近未来を暗示するシーンでも観せられているような錯覚を覚えた。

■沖縄占領という悪夢のシナリオ

 無論、それは中共による沖縄占領という悪夢のシナリオが実現してしまった場合のことを意味しているが、このまま中共がトランプ大統領の中国封じ込め政策に屈せず、覇権主義を拡大していくことになれば、香港を皮切りに、台湾、尖閣、沖縄と軍事的に占領される可能性が無いとは言い切れない。

 そんな悪夢が現実になる可能性を考えると、もしかすると、近い将来、「首里城」が燃えているような光景を我々は目にすることになったのかもしれないな…と思えた。
 このまま、日本がアメリカ任せで何の手も打つことなく傍観すれば、そうなる可能性がありますよという警告のようなシーンだったと言えるのかもしれない。

 ところで、今回の「首里城」出火の原因は未だ判明していない。
 それを良いことに「自民党の陰謀(辞任問題から国民の目を欺くための陰謀)だ」と言っているような陰謀論者もいるみたいだが、流石にそれは無理筋であり考え過ぎだと思う。
 同時に「(首里城出火は)自民党が安全対策を怠ったからだ」という意見もあるぐらいなので、そのような陰謀説は成り立たないと思う。

 自然出火であったのか、物理的な出火事故であったのか、それとも放火事件であったのかは不明だが、沖縄の象徴とも言える「首里城」が炎上したことは、先に述べたことも含めて、いろんな意味でショッキングな出来事だったと言える。

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posted by 自由人 at 07:59 | Comment(0) | コラム
2019年07月29日

「情報弱者」という言葉の定義を考える


■「情報」に「強い・弱い」は妥当か?

 前回の記事で「情報弱者」についての考察を書いてみると、案の定、様々な反論を頂いた。
 「情報弱者」とはネット検索によって能動的に正しい情報を得ようとしない人のことを指すという反論が散見された。要するに、情報リテラシーの問題ということになるのだろうか。

 現状における「情報弱者」の定義はその通りなのだろうけれど、頭を1度ゼロクリアして「情報弱者」という言葉を考えてみると、少し疑問点が生じると思う。

 「情報弱者」とは、その言葉通り「情報に弱い者」という意味になるが、そもそも情報には2種類ある。それはもちろん、「正しい情報」と「間違った情報」のことだが、この言葉を補えば、以下の4つのパターンがあることになる。

 ●正しい情報に強い者
 ●正しい情報に弱い者
 ●間違った情報に強い者
 ●間違った情報に弱い者


 ここで少なからず違和感を感じるのは、情報に対して「強い」とか「弱い」という言葉を使用することは本当に正しい使い方か?ということである。
 本来であれば、情報に強いか弱いかではなく、情報識別力が高いか低いかと言った方がピッタリすると思う。

 当初、「情報弱者」とは、ネットで情報にアクセスできる人とできない人の差を指した言葉だったと思うが、いつの頃からか、その情報にアクセスできることを前提として、その情報が正しい情報か間違った情報かを分別できない人のことを「情報弱者」と呼ぶようになった。

 例えば、偏った新聞やテレビの報道をそのまま鵜呑みにしかできない層を「情報弱者」と呼ぶ向きがあるが、その場合は「情報識別力が低い人」と言うのが正しいと思う。思想的なものを含まないなら「情報リテラシーが低い人」と言い換えることも可能かもしれないが、「情報弱者」にも段階があり、その辺が曖昧になっているため、無闇矢鱈に「情弱」という言葉を使用するのは可笑しいという遠回しな皮肉を書いたつもりが、あらぬ誤解を招いてしまったらしい。

■「情報識別力」が「高い・低い」が正しい

 ある保守系の言論人の批判を書いたのも、普段、どれだけ情報の正しさを識別する能力を有している人物であろうと、識別するべき情報を精査せずに論評してしまうと、その人物はいとも容易く情報弱者(情報識別力が低い人)になってしまうという皮肉を書いたまでのことで、別に保守系の論客を否定しているわけではない。

 個人的には、情報識別力というのは、知識量とはあまり関係がないと思っている。たとえ1万冊の書物を読んだ人であっても、その人物が必ずしも情報識別力が高いとは限らないし、本をほとんど読まない人でも情報識別力が高い人は大勢いると思う。読書はその能力を高める役目を果たすツールには成り得ても、それが万人に適用できるわけでもない。

 情報識別力の高い人と情報識別力の低い人の違いは、結局のところ、物事の本質を見抜く鑑識眼の高い人と低い人の違いでしかないと思う。どれだけ高学歴であろうと、どれだけ知能指数が高かろうと、鑑識眼の高低とはあまり関係が無いと思う。現実を見ても、実際にそうなっていることは誰もが認めるところではないだろうか。

 情報識別力が高いというのは、直感が鋭いとか、洞察力が鋭いとか、そういう類いの能力の1つだと思う。如何に論理的であっても、その論理自体が嘘である場合は見抜けない人が出てくる。肝心なのはその論理の嘘まで見抜ける能力が有るかどうかが問われることになる。だからベクトル的には、能力が強い、能力が弱いではなく、能力が高い、能力が低いとした方が正しい使い方だと思う。

 つまり、本来の言葉の定義から外れて「情報弱者」という言葉自体が拡大解釈されて独り歩きしているということ。それが結論になる。
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posted by 自由人 at 00:09 | Comment(0) | コラム
2019年07月28日

現代における「無知の知」【全ての人間は「情報弱者」】


■曖昧な「情報弱者」という言葉

 現代では既に市民権を得た言葉に「情報弱者(情弱)」というものがある。誰でも無料で広範な知識が得られるネット情報社会になってから、頻繁に耳にするようになった言葉でもある。
 毎日のように、多くの人が、事ある度(自分より知識が無いと思う人を見つける度)に「情弱」という言葉をドヤ顔で語るシーンを目にするようになったが、「情報強者」と「情報弱者」との間にはたしてどれだけの差が有るのだろうか?

 ある特定の分野(例えば、コンピューター知識、医学知識)における個人の情報差は埋め難い程に開いているのかもしれないが、ジャンルを分けなければ総情報量には埋め難い程の開きは無いかもしれない。ネット情報社会以前に、これだけ膨大な知識が氾濫している人間社会で、全てのジャンルにおいて情報量が勝っている人など皆無に等しいと言える。

 例えば、会社の先輩と後輩を比べても、仕事の知識量は先輩の方が勝っている場合があったとしても、その他の趣味などの種々雑多な情報量を比べてみると、必ずしも年長者が勝っているとは言えない。ジャンルによっては、その関係性は全く逆の場合も有る。

 現代社会に溢れる膨大な知識の洪水の前には誰もが無力であり、誰もが情報弱者だと言える。現代における「情報強者」「情報弱者」とは、ある特定のジャンルに限って使用することが許される言葉でしかないのかもしれない。

■医療に限定した「情報強者」論

 現代は、専門の学者よりも知識を持った一般人が大勢いる時代とも言われている。先程述べた医学知識等についても医者よりも詳しい一般人もいる。(ここでいう「医学知識」とは専門の医療用語のことではなく病気を治す知識のこと)

 一口に医療と言っても内科・外科・整形外科・神経科・泌尿器科・耳鼻科等々、様々な区分け(ジャンル)があり、1人の医者が全ての知識を有しているわけではない。分野の違う医療知識はほとんど皆無という医者も大勢いる。その証拠に処方する薬の副作用がバッティングしても分からないというケース(所謂、ポリファーマシー※問題)も多々ある。
 実際に私の知人も、内科で処方された薬と神経科で処方された薬の相性が合わず思わぬ副作用が生じたケースがある。そういう場合は、薬の専門家である薬剤師にでも相談しなければ、副作用の原因が判らない。

※服用する薬剤が多いことで発生する薬物有害事象(副作用)

 全てのジャンルにおいて医学知識が勝っている万能の医者など存在しない。内科における「情報強者」、外科における「情報強者」がいたとしても、全ての医療分野における「情報強者」というのは存在しない。

■現代人にも当て嵌まる「無知の知」

 医療に限定した例え話を書いてみたが、人間社会における「情報強者」理論もこれと同じ理屈であり、特定の分野における「情報強者」は存在し得ても、全ての分野における「情報強者」は存在しない。

 より大きな視点で観れば、全ての人間は情報弱者でしかない。そのことを認識せず、無闇矢鱈に「情報弱者(情弱)」という言葉を用いて他人を批判することは、自らが本当の情報を知らないことをアピールしているようなものかもしれない。

 先日も、ある著名な保守系の言論人が、畑違いの医療の話を書いている本を読んでみたが、全く見当外れなことを書かれておりゲンナリしてしまった。参考資料を調べもせず(調べても解らない場合もある)、思い込みやイメージだけで自らの専門分野以外のことに口出しするとボロが出る典型を見た思いがした。

 ソクラテスが説いた「無知の知」とは現代におけるドヤ顔知識人にもピッタリと当て嵌まる言葉なのかもしれない。
 ソクラテス風に言うなら、自らが「情報強者」であると自惚れた時に、その人物は既に自らを「情報弱者」と認識している人以上に「無知」なのである。

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posted by 自由人 at 00:17 | Comment(0) | コラム
2019年07月13日

「日本的経営は世界の非常識」


■「電波怪獣」竹村健一氏の死去

 今週は日本の芸能界を牽引してきたジャニーズ事務所のジャニー喜多川氏が死去されたことで大きな話題となっていたが、その陰に隠れた形で、日本の言論界を牽引してきた竹村健一氏が死去されたというニュースが出ていた。

 最近はジャニー喜多川氏同様、竹村健一氏もメディアには全くと言っていいほど姿を見せていなかったが、昔は「電波怪獣」と言われただけあって、数多くのメディアに出演されていた。建前ばかりのテレビ界にあって、1人本音を語り、異彩を放つ憎めないキャラクターだった。

 私が竹村健一氏の本を初めて読んだのは学生時代だったと記憶しているが、難しい事柄を平易な文章で説明する文体は読み易く、その後、多くの本を読ませていただいた。ちなみに、竹村氏の場合、口述筆記で有名だったので、文章自体は別人が書いていたのかもしれない。

■「日本の常識は世界の非常識」

 竹村氏が残した有名な言葉に以下のようなものがある。

 「日本の常識は世界の非常識

 戦後、他国とは物理的に隔絶された島国環境にあった我が国では、戦勝国による思想統制の影響によって、戦前の常識は悉く否定されることになり、日本独自の文化というものが多々生まれた。

 最近では「常識を疑え」と言っている識者も大勢いるが、大抵の人は、生まれた環境に既に根付いた常識を疑おうとはしない。どんな不条理な常識であっても空気のように受け入れる人が大勢を占めているので、「日本の常識は世界の非常識」のままであることが多い。

 「憲法9条があるから戦争は起こらない」という日本の常識も、そのまま鵜呑みにしている人も少なくない。
 あるいは、「謝罪は美徳」というような日本の常識も、世界(特にアジア)では通用しない。

■「日本的経営は素晴らしい」という常識

 少し毛色を変えると、「日本的経営は素晴らしい」というのも、日本でしか通用しない常識だとも言える。
 日本では昔から「和をもって尊しとなす」と言われ続けてきたので、その言葉に結び付けて「日本的経営は素晴らしい」とする向きがある。しかし、これは少し曲解されている部分があると思う。
 
 日本では、仕事のできる人間が仕事のできない人間を延々とカバーすることをもって「日本的経営は素晴らしい」と思われているフシがある。
 「仕事のできる人間は文句を言わず、仕事のできない人間の分まで仕事をして、給料もなるべく平等に分けることが尊い」という風に受け止められているような気もする。

 健常者が病人や障害者の分をカバーするのは当然のことだと思うが、単に仕事をしない人間、やる気のない人間の分までカバーしなければならないとなると、「共産主義的経営は素晴らしい」になってしまう。

 共産主義には「各人は能力に応じて働き、必要に応じて受け取る(分配される)」というような考え方があるが、「日本的経営」には、この言葉を実践していると思われる部分がある。
 「仕事をしない人間は能力に応じて働き、必要なだけの報酬を得ることができる」というような仕事をしない労働者の楽園思想が「日本的経営」に入り込んでしまっている。

 聖徳太子が言った「和をもって尊しとなす」とは、世界の常識と成り得る言葉だと思われるが、日本では少し屈折した意味合いで認識・利用されているところがある。

 公平性に重きを置く欧米社会では、仕事のできる人と仕事ができない人には公平な差が開くことは常識として受け入れられている。
 しかし、平等性に重きを置く日本社会では、仕事のできる人と仕事ができない人をなるべく平等に扱うことが尊しとされる。これぞまさに「日本の常識は世界の非常識」の見本だと言えるのかもしれない。


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posted by 自由人 at 07:49 | Comment(0) | コラム
2019年05月07日

天皇の存在理由(レーゾンデートル)とは?


■条件次第では「万世一系は虚構」でも構わない

 前回の記事で、「万世一系は虚構」とのコメントを頂いた。BLOGOSの転載記事にも似たようなコメントが見られたので、この件で少し補足記事を書いておこうと思う。

 それ以前に、「天照大神は女性なので、女系では?」という意見があったが、原初は男性でも女性でも構わない。それが男女差別ではない証拠だとも言える(むしろ女性優位とも言える)ので、これについてはこれ以上は書かない。

 本題の「万世一系は虚構」の方を述べると、これは確かにその可能性は有ると思う。血縁に繋がりが有るという説に嘘が無いことを信じたいが、それは残念ながら判らない。
 実際、現代に生きている人間でも自分自身の血縁がどこでどうなっているかなんて分からない。先祖代々などと言っていても、諸々の事情で先祖の血は入っていないというようなケースは多々ある。

 そういったことが天皇家には無かったと信じたいところだが、残念ながらそれは誰にも証明できない。ついでに言うなら、有ったということも誰にも証明できない。

 しかし、歴史的な文献であっても、はたしてどこまで真実かは分からない。文献というものは如何なる大著であったとしても、ドライブレコーダーや隠しカメラのように24時間の出来事が全て記録されているわけではない。
 評伝や自伝でも、読者の知ることができるのはほんの一部でしかない。その人物が心の中で何を考えていたか、全てを知ることは不可能であることは、よく考えれば解ることだと思う。血縁が100%正しいと証明できないのと同様に、文献も100%正しいとは証明できない。

■最も重要なことは、天皇の「威厳」

 「それでは、天皇の血筋を証明できないではないか!」と言う人がいるかもしれない。その通り、しかし、それでいいと思う。大体、血筋だけで人間が決まるというなら、それこそ差別だということになってしまいかねない。

 では、何が重要なのかと言うと、最終的には「国民に対して威厳を保てるかどうか」ということ。
 天皇=日本教に必要不可欠なのは、目に見えない高貴で崇高な価値であり、そういったものが観念的に理解できない人には、「血縁」という方便を用いる必要が有るので、「男系」に拘らなければならなくなっているということだろうと思う。

 万人が天皇という存在を受け入れるためには、目に見える形としての「男系」が必要になっているというだけで、仮に「血縁」が無かったことが科学的に証明されれば天皇を辞めなければならないのかと言えば、そんなことはない。国民に対して威厳を保てている天皇であれば、辞める必要は無い。

 重要なことは、天皇の存在が見えない規範となって国民を律する存在と成り得るかどうか。そこがキーポイントになる。

 GHQが天皇制を廃止することをなぜ恐れたのか? その理由を考えれば、天皇の存在理由(レーゾンデートル)が見えてくる。それは「血縁」でもなければ「男系」でもない、天皇の「威厳」、それこそが日本人にとって最も重要な価値の1つだった。しかして、そのことを万人が理解するためには、「男系」である必要があるということ。



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posted by 自由人 at 23:47 | Comment(0) | コラム
2019年05月05日

天皇問題を考える10連休


■「象徴天皇制」の意味するところ

 天皇陛下の退位と皇太子殿下の即位による10連休の必要性については賛否が分かれるようだが、それでもこの10連休は目出たい休日ということで、各地で令和記念感謝祭なども催されてお祭り騒ぎとなっている。

 一方で、天皇という存在について改めて考え直す機運も高まっており、昨今話題になっている「男系・女系」天皇問題や、「象徴天皇制」が記載された憲法論にまで話題は広がっている。

 日本国憲法の第1条には、次のように書かれている。

 『天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

 GHQによって起草されたとされる現在の日本国憲法には、天皇が象徴となり、しかもその地位は、国民の総意に基づくとされた。

 この一文には、本来、一国の君主であったはずの天皇の地位が、国民の意思次第で奪われてしまう可能性があることをも示唆しているのだが、そういった話はあまり聞こえてこない。

■「天皇制」という言葉の意味するところ

 「天皇制」という言葉自体が左翼用語と言われるのは、かつてのソ連(コミンテルン)が作り出した言葉であるためで、日本の「天皇制」を打倒することがスターリンの目的であったとされる。

 GHQは諸々の事情から天皇制は残すことを決定したが、華族制は廃止した。そのせいもあって、現在の跡継ぎ問題が表面化していると思われるのだが、こういった話も全くといっていいほど聞こえてこない。
 聞こえてくるのは、男系か女系かという結果論のみで、そういった問題を生んだ原因論は、知ってか知らずか全く無視されているかのようだ。

 北朝鮮等の独裁国家の元首と違って、日本の天皇というのは、天皇が命令するまでもなく、自然と国民が天皇を敬うという意味で、まるで違う。

 戦前・戦中、アメリカは日本の天皇を、現在の北朝鮮の元首のように思っていたフシがあったとされているが、実際に占領軍となって進駐してみると、それが間違った認識であったことを知った。実際は戦前からそのことを理解していたという説もあるが、いずれにしても、日本の天皇は日本国民にとって特別な存在だということを知ったことで、天皇制だけは残すことになった。

■「三種の神器」が意味するところ

 今回の生前退位では「三種の神器」という言葉が何度も伝えられていたが、これは「八咫鏡・八尺瓊勾玉・草薙剣」のことであり、大昔に天照大神から授かったものとされている。「草薙剣」というのは、漫画やゲームにもよく登場するアイテムなので、知っている人も多いのではないかと思う。

 天皇の皇位継承とは、この「三種の神器」を受け継ぐ儀式のことであり、それが天照大神の時代から連綿と続けられてきたことこそが日本が世界に誇るべき伝統であり、国民が天皇に何か神聖なものを感じるのは、そういった神話の世界からの繋がりがあるためだと言える。

 要するに、現天皇は天照大神の直系の子孫というバックグラウンドが有るということ。それが宗教というものにあまり縁の無い多くの日本人の心の拠り所となってきた。ある意味、キリスト教以上の歴史を持つ天皇という存在が、日本人の良心を統べる日本教の御本尊になってきたという背景を見落としてはいけない。人間天皇の背景にいる天照大神という存在を国民は無意識的に崇拝してきたというのが天皇の歴史でもあった。
 皇居に集った国民の「バンザイ」という声は、その伝統が継承されたことに対する喜びを表現したものとも言える。

 そして、天皇が男系でなければいけないという理由も、まさにそこに有るのだが、こういった話もあまり聞かれない。

 誤解を避けるために一応お断りしておくと、その理由とは、国民が天皇を天照大神の直系の子孫であると認識するには男系であった方が良いという意味である。

 現代では、保守系の識者が「天皇は男系でなければいけない」などと言うと、「男女差別だ!」という批判が返ってくることになる。

 そういった批判も解らないこともないが、神話の時代から伝承されてきた天皇という特別な存在と、現代の男女問題とを同列に考えるのは、少々、無理があるのではないかと思う。



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posted by 自由人 at 00:19 | Comment(1) | コラム
2019年04月29日

AIに映画の良し悪しが理解できるか?


■AIに映画レビューが書けるか?

 少し前に、AIは感情面において人間を超えられないという内容の記事を書いてみると、賛同してくれる人もいれば、反論してくる人もいた。
 私は、計算能力などの機械的な部分は既にAIは人間に勝っていると書いた上で、感情的な部分だけはどうしても超えることができないと書いた。
【関連記事】人工知能(AI)は人間を超えるか?

 人間をコンピューターと同じ機械のようなものと思っている人間機械論者には、AIが人間の進化形に見えるのかもしれないが、昨日、観た映画『アベンジャーズ/エンドゲーム』の映画レビューサイトを見ていて、さらに、AIは人間を超えられないという認識を強くした。

 その理由とは、AIに、まともな映画レビュー(人生経験に照らしたレビュー)が書けるのか?ということである。

■『アベンジャーズ/エンドゲーム』フィーバー

 マーベルのMCUは今作『アベンジャーズ/エンドゲーム』によって22作目となり、残り1作『スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム』でフェイズ3が終了になる。
 ちなみに、フェイズ4は、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー3』で幕を開けることになっているので、舞台は宇宙に移っていくのかもしれない。本シリーズが今年で終了する『スターウォーズ』シリーズの後釜的な作品になっていく可能性は充分にあると思う。

 私自身もMCU作品は全て観ており、22作品中、15作品を映画館で観ているので、マーベル映画ファンの1人と言っても過言ではないと思う。今作『アベンジャーズ/エンドゲーム』は、この11年間の集大成とも言える映画なので、マーベルファンはその完成を固唾を呑んで見守っていた。

 伝えられているところでは、MCUの熱狂的なファンの中国人女性が、鑑賞中にあまりの興奮で過換気症候群(過呼吸による発作)を発症し、病院に運びこまれたらしい。
 それは極端な例としても、映画掲示板などのフィーバーぶりは凄まじいものがある。
 Yahoo!映画掲示板では、日本での公開前に海外で観たというレビュアーがいきなりネタバレ発言をして問題になっていたが、映画レビューサイトのFilmarksでもレビューを読むスピードよりもレビューが追加されるスピードの方が速いというフィーバーぶりで、現時点で総合評価4.8点という稀にみる高評価を得ている。

■AIには永遠に真似のできない人間感情

 少しオーバーかもしれないが、11年間を通し、シリーズ22本の映画を観てきた感想というのは、その人の人生の一部とも言えるもので、その経験を実際に体験した人間だけが書ける代物でもある。
 これを、AIに同じ体験をさせて、その人生経験を通じたレビューが書けるのか?というと、書けないと思う。もし書けたとしても、それは統一的な同じようなレビューばかりになってしまうはずであり、それぞれ別の人生を歩んでいる個々の人間のように、その個人の人生経験に照らした上での様々なレビューにはならないはずだ。

 先の発作を起こした女性のように、AIが感極まって涙を流したり、発作を起こすなどということも無いだろう。それが、AIには永遠に真似のできない人間の感情というものだろう。

 AIは人間を超えられない、『アベンジャーズ/エンドゲーム』を観て感動した人には、そのことが身に染みて理解できると思う。



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posted by 自由人 at 11:34 | Comment(0) | コラム