2023年11月26日

飛行機の「なぜ?」


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■飛行機はなぜ飛ぶのか?

 アメリカのライト兄弟が世界初の有人動力飛行に成功したのが1903年であり、既に120年が経過している。しかしながら「飛行機はなぜ飛ぶのか?」という質問に正しく答えられる人はほとんどいない。いたとしても、有り体の空気抵抗理論を述べるだけで、誰もが納得できるような答えは返ってこない。
 それもそのはずで、実のところは未だに飛行機がなぜ飛べるのかは分からないという意見が一般的であり、誰も本気でその理由を探ろうとはしない。これは、非常に不可思議なことだと言える。

 先に述べたライト兄弟の話は、軽量なグライダーが飛んだというだけのことであり、現在のような重さ数百トンもあるような巨大な鉄の塊が空を飛ぶのとは全く異なる話である。

 常識的に考えると、重さ数百トンもある飛行機に数百人もの人が搭乗して空気抵抗だけで空を飛ぶというのは俄には信じ難い話であり、そういったイメージから未だに飛行機に乗るのは恐いという人もいる。

■飛行機はなぜ事故が起こらないのか?

 私も初めて飛行機に乗った時は、なぜこんなものが空に浮かぶのか?という疑問を抱いた。飛行機が離陸してからは、まるでジェットコースターが上に向かって登っていくような階段状の動きを感じた。まるで目に見えない物理的な線路でもあるかのような感覚だったことを覚えている。

 イメージ的にはこの上なく危険な乗り物と思える飛行機だが、飛行機の事故発生率は0.00009%(10万分の1未満)であり、圧倒的に安全な乗り物となっている。
 日本国内に限定すれば、1985年の日航ジャンボ機の墜落事故以来、事故と呼べるようなものは起こっていない。尤も、日航ジャンボ機も事故ではなかった可能性も否定できないのだが、その件には今回は触れない。

■飛行機はなぜ浮かぶのか?

 ジャンボジェット機が空気抵抗だけで飛行しているのであれば、予想外の強風等で飛行できなくなるケースがあってもよさそうなものだが、そういったトラブルも全くと言っていいほど聞かない。強風に煽られてバランスを崩し、操縦できなくなって街中に墜落するというような事故も全く起こらない。

 もし、ジェット機が頻繁に住宅地に墜落するような不安定な乗り物であれば、住人にとっては巨大なミサイルが飛んで来るようなものであり、その度に大惨事になり、誰も恐くて飛行機には乗れなくなるだろうし、パイロットやアテンダント(旧スチュワーデス)になるような人もいなくなるだろう。
 しかし、そういったことは万に1つも起こらない。ジェット機が墜落するのはテロリストにミサイルで撃墜されたような時だけとも言える。これはよく考えるとおかしくないだろうか?

 飛行機のエンジンは前に進むためのものであり、ヘリコプターのプロペラのように上下に機体を動かすものではない。ということは、数百トンもある飛行機がバランスを崩した場合、空気抵抗力を失って真っ逆さまに下降していき、通常は機体を持ち直すことはできないのではないだろうか?

 よく映画のワンシーンで、飛行機のエンジントラブルで機体が下降していくシーンがある。パイロットはなんとか高度を持ち直して安堵するのだが、よくよく考えると、落ちていく機体をどうやって上に上げるのかは謎に包まれたままだ。ヘリコプターであれば、機体を上に上げることは可能だろうけれど、前に進むことしかできない飛行機が、なぜ墜落中に高度を上げることが可能なのかが解らない。

■飛行機はなぜ墜落しないのか?

 考えれば考えるほど謎だらけの飛行機だが、世の中には飛行機は未知のテクノロジーで飛んでいる(浮いている)と言う人もいる。音の力で浮いていると言う人もいれば、反重力テクノロジーで浮いていると言う人もいる。いずれにしても、現代人が知らされていない未知の技術であり、SFのような話だが、そういった話もまんざらではないのかもしれないな…と最近は思うようになってきた。実際、そうでも考えないと飛行機はなぜ飛んでいるのか?という質問には応えられそうにないし、あれだけ事故が起こらない謎も説明できない。この嘘だらけの世界では、そんな秘匿があっても何ら驚くようなものでもなくなってしまった。

 空を飛んでいる飛行機を見て、「なぜ飛行機は飛んでいるのだろう?」「なぜ飛行機は墜落しないのだろう?」、そんな当たり前の疑問も感じないほどに飛行機は安全な乗り物となってしまった。
 「飛行機はなぜ墜落しないのか?」ではなく、もし始めから「飛行機は墜落しないように作られている」のだとすれば? そう考えれば、全ての謎が解けてしまうのだが、真相は分からない。
 
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posted by 自由に考える人 at 22:59 | Comment(0) | コラム
2023年08月05日

「5次元の視点」とは何か?


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■人間は4次元の視点を持った3次元的存在

 我々人類は、3次元世界に生きている。

 3次元というと「縦」・「横」・「高さ」の世界であることは誰でも知っている。3次元に生きる人間がテレビなどの平面の世界を認識できるのは、1つ上の3次元的視点を持っているからである。
 しかし、2次元の世界を認識するためには3次元的な視点が必要であるように、3次元の世界を認識するためにも、1つ上の4次元的視点が必要である。

 4次元的な視点とは、「縦」・「横」・「高さ」に「時間」というものが加わる。人間は3次元的な存在ではあるが、時間軸に沿って過去を記憶しながら生きる存在なので、元から4次元の視点を持った3次元的存在でもある。だから、自分自身が3次元世界に生きていると認識することができる。

 4次元世界とは「時間」という概念が追加される世界ではなく、正しくは「時間」が無い世界である。「時間」が無いので、過去・現在・未来の人間(魂)が同時に存在できる世界ということになる。

 具体的な例で言えば、死後の世界が4次元世界ということになる。あの世に還ると過去に死んだ人間(親)と会えて会話もできるという話は誰でも昔話等で聞いたことがあると思うが、それは「時間」という概念が無い世界だからである。

 では、5次元とは何か? これが今回の本題。

■「ワクチンを打った世界線」と「ワクチンを打たなかった世界線」

 5次元とは、3次元世界を含んだ4次元世界が無数にある世界ということになる。それは、現代風に言うなら、パラレルワールドの世界でもある。5次元の視点を持てば、無数のパラレルワールドが有ることが解るようになるので、自らの生きる世界線を正しい選択によって選ぶことができるようになる。

 では、5次元の視点とは何か?

 卑近な例で言えば、ワクチンを接種するか、接種しないか、この選択も当然、その後の自らの生きる世界線を変えることに繋がる。誰もが、「ワクチンを打った世界線」と「ワクチンを打たなかった世界線」というパラレルワールドを持っている。その2つの世界線は、誰もが選択可能であった別のパラレルワールドである。

 ただ、通常は、その2つの世界線のどちらが正しい世界線なのか?ということが分からない。と言うよりも、ほとんどの人々は「ワクチンを打った世界線」の方が正しいと思ってワクチンを接種したのだろうと思う。

 逆に、ワクチンを打たなかった人々は、「ワクチンを打たなかった世界線」の方が正しいと思って接種しなかった。

■善悪の違いを知って正しい未来を選択する視点

 ここで重要なポイントは、後者の「ワクチンを打たなかった人々」の多くは、単に正しいと思ったのではなく、正しいということを知っていたという点だ。別の言い方をすれば、彼らには、ある程度、未来が見えていたのである。

 未来が見えるということは正しさが見えるということ、それが「5次元の視点」である。

 この3次元世界の真の構造を知っている人は誰もワクチンを打たなかった。それは、ワクチンが危険なものであると知っていたからだ。つまり、彼らは自ら正しい世界線を選択できる知識や能力を有していたということになる。それは結局のところ、何が正しくて何が間違っているのかという善悪の違いを知っていたということである。

 善悪の違いを知るということは、悪が何か?ということを正しく認識していることを意味している。悪が何か?を知っているがゆえに、正しい未来を善人の立場で認識し選択することができるようになる。

 巷では、「5次元」と言うと「アセンション」とか、何か神秘的な変化が起こることを意味しているものもあるが、そういうマクロな話とは別の意味合いで、個人という単位でも5次元的な変化というのは起こっているのかもしれない。

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posted by 自由に考える人 at 14:30 | Comment(0) | コラム
2023年03月26日

給食(コオロギ食)を食べ残すことが多様性になるのか?


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■「コオロギ食」は多様性の問題か?

 コオロギ食の是非は社会問題となり、様々な人がその是非を論じているが、生物学者で評論家の池田清彦氏の発言も注目を浴びている。なぜ注目を浴びているのかというと、珍しくコオロギ食を否定していないという点で。

 ツイッターで有名な女性インフルエンサーの南雲香織氏との論戦(?)が興味深い(下記参照)。



 池田氏は、最近の著書でも舌鋒鋭く、社会の矛盾点を指摘されていたので少し注目していたのだが、なぜかコオロギ食については、どっち付かずの意見を貫いておられるようだ。

    

■「食べたくない人に食べろという権利は誰にもない」

 池田氏は『SDGsの大嘘』でグローバル資本主義を批判し「脱炭素はペテン」とまで言われているのに、SDGsを推進しているのと同じ勢力がコオロギ食を推進していることは御存知ないのだろうか?

 池田氏には『コオロギ食の大嘘』も書いて欲しいところだが、「食品の多様性」を前面に出し、コオロギ食をゲテモノ食いと同じ範疇で考えておられるところをみると、あまり期待できそうにない。多分、軽い気持ちで東南アジアのコオロギ食に言及したことに起因(藪蛇)しているのだろうけれど。

 池田氏は「コオロギも豚肉も、食べたい人に食べるなという権利は誰にもないのです。」と言われているが、その通り(菜食主義者やヴィーガンには言う権利は有ると思うが)。しかし、逆に言えば、「食べたくない人に食べろという権利は誰にもない」。

 ところが、現在のコオロギ食は、給食のメニューに入ってしまっている。給食のメニューは、学生達が選べるわけではないので、池田氏の言に従うと、「食べたくないなら残せ」ということになってしまう。多くの生徒が食べ残すことが分かりきっているようなものを、給食のメニューに入れることは何の問題も無いと言うのだろうか?

 食料危機を煽り、食料の大切さを謳う世の中で、給食を食べ残すことがノープロブレムと言うなら、その風潮こそが「偽善」と言うに等しい。

■南雲香織氏はAIではない。

 池田清彦氏のことだけではアンバランスなので、この機会に南雲香織氏にも少し触れておこうと思う。

 最近、「反ワク」の世界で頭角を現してきた南雲香織氏に対して、その言論を止めさせようとネガティブな書き込みや意見が多くなってきた。
 中には、南雲氏がAIだと言っているような人もいる。「コロナ脳」の一般人だけでなく、世間では陰謀論者と言われている人まで「南雲氏はAI」と言っている人がいるのには呆れた。

 彼女がAIと言われる理由は、投稿時間が決まっていることと、プロフィール画像がCGであることの2点のみ。しかし、予め投稿時間を指定すれば決まった時間に投稿できるだろうし、一般人がプロフィール画像に本物の自己写真を使用する方が珍しいことだ。プロフィール画像だけでなく、名前もおそらく偽名だろう。そんな当たり前のことも分からないのだろうか?

 南雲氏の書かれた文面を読んでも、明らかに1人の個性で統一されており、誤字や脱字もあるし、ネタで皮肉を書いたり、フィクションを書いたりもしている。これが全てAIだと?

 現代人はAIというものを買い被りし過ぎであり、AIが少し人間らしく(アバウトに)振る舞うことができたとしても、人間そのものになれるわけではない。

 「南雲香織はAI」などと宣っている人は、少し人間性を疑った方が良いと思う。

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posted by 自由に考える人 at 10:56 | Comment(0) | コラム
2023年03月05日

「コオロギ食」を普及させるのは無理難題


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■不買運動に発展する「コオロギ食」

 食料危機を煽り、コオロギ食の普及を前面に出してきた政府と企業に対して、批判が集まっている。
 給食にコオロギパウダーを入れていた徳島の高校や、コオロギパウダー入りの機内食を提供していたJAL、パンにコオロギパウダーを入れて販売していたPascoなどがネットで炎上し批判の矢面に立たされている。

 中でも、Pascoは関連製品の不買運動が水面下で行われているようで、早速、パンの売れ行きに陰りが出てきたらしい。

 当初、Pacsoは、コオロギ入りのパンと、自社の看板商品である「超熟」は別のラインで製造しており、コオロギパウダーが「超熟」に入ることはないとしていた。しかし、実際に現場を見ていない疑り深い消費者が、そんな言葉を信じるはずもなく、“Pasco=コオロギ”というマイナス印象を刷り込まれた消費者は、Pasco商品を買い控えするようになった。

 これに対してPascoは、「コオロギ食を悪とするデマを流す人に対して法的措置を取る」とも言い出しており、鼻息が荒い。

■「コロナ脳」「ワクチン脳」でも「コオロギ脳」にはならない

 デマに対しては法的措置を取るというのは、河野太郎氏の姿勢をカブっている。両者共に、有権者や消費者からのクレームに対して法的措置を取るなどと言っているわけだから、お門違いも甚だしい。有権者や消費者に対して納得のできる説明をするのが政治家や企業の真っ当な姿だろう。

 Pascoがコオロギ入りのパンを「健康食」として販売しているのであれば、「健康に悪い」と言っている消費者に対して「間違っている」と反論するなら理解できるが、食料不足を原因としたタンパク質の補充のためにコオロギを使用しているということなら、その食料不足についての説明を行う必要がある。

 魚や貝や納豆など、様々な既存食品から良質のタンパク質が摂れるのに、敢えてコオロギ食を勧める理由を消費者に対して説明する必要がある。それができないのであれば、商品を買うか買わないかは消費者が決めることであって、生産者が文句を言うのは筋違いだ。

 政府が後押ししているので強気の姿勢を崩していないのかもしれないが、さすがにコオロギ食を普及させるのは無理が有り過ぎると思う。現状、日本では食料危機は起こっていないわけだから、他に山ほど食料(食材)が有る状態で、食料危機を煽ってコオロギを食べろと言われても誰も納得するわけがない。

 その証拠に、ワクチンには肯定的だったホリエモンやひろゆき氏でさえ、コオロギ食を批判している。
 彼らはグローバリストの命令で動いているとの声も囁かれていたが、コオロギ食を批判しているところを観ると、どうやら、グローバリストに指示されているわけではなく、その他大勢の国民と同様に無意識的にグローバリストに洗脳されているだけなのかもしれない。

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posted by 自由に考える人 at 20:14 | Comment(0) | コラム
2022年11月26日

「世界一の識字率」なのに「世界一の奴隷国家」の日本


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■識字率が世界一高い日本人は優秀なのか?

 日本は世界一、識字率が高い国と言われることがある。一般的に、日本人は識字率が高いので優秀なのだという意味で使われる。
 しかし、その世界一を誇る識字率を持つ国民が、なぜか、世界一、政府に従順で、世界一、マスコミを信じているということも知られている。

 この皮肉な結果が意味することは、以下の通り。

 識字率が高いということは、物事を考える思考力が高いということではなく、政府やマスコミの発表を鵜呑みにする能力が高いということ。

 なるほど、文字を知らず、文章が読めなければ、自ずと政府やマスコミの嘘に触れる機会も減少し、逆に、自らの頭や直感で物事を判断する傾向が強くなるのかもしれない。

 まともな政府やマスコミであるなら、識字率が高いことは大きなメリットになるかもしれないが、そうでない政府やマスコミを抱えた国では、識字率が高いことはデメリットになる可能性が高くなるというわけだ。

■真実を見抜く能力(洞察力)は、識字率の高低とは関係がない

 コロナワクチン接種が開始されて、1年半が経過し、案の定、ワクチン被害を訴える人々が増加してきた。こうなることは当初から分かっていたので、ワクチン接種が開始される前から、まともな有識者達は、コロナワクチンに対して警告を発していた。私もその1人だが、そういった人々は陰謀論者扱いにされて、聖書に登場するノアの如く、鼻で笑われ、まともに話を聞いてくれる人はほとんどいなかった。

 現在、コロナワクチンで被害を被って、被害を訴えている人の中にも、真実を発表している人間に対して「陰謀論者だ」と言って嘲笑していた人も少なからずいたのではないだろうか。

 この皮肉な結果からも、真実を見抜く能力(洞察力)は、識字率の高低とはあまり関係がないことが窺える。無論、学歴ともあまり関係がない。

 高学歴者であってもワクチンの本質に気付けた人はほとんどいなかったことが、そのことを如実に証明している。実際に、東大や京大を卒業した人であっても、ワクチンを礼賛し、「反ワクは馬鹿だ」と罵っていた人が大勢いた。

 識字率の高さや勉強ができるという能力は、他人から与えられた課題を吸収する能力(記憶力)が高いというだけに過ぎず、自分の頭で1から考える能力が高いことを意味していない。

■現代人に必要な「疑って考える能力」

 昔から、本当に頭の良い人は、シンプルに考えることができる人であり、難しいことを簡単に伝えることができる人だと言われる。識字率の高さからくる勉強ができるという能力は、難しいことを難しいまま伝える能力のようなものであり、難しいことを自分の頭で咀嚼して、簡単に伝える能力のことを意味していない。自分の頭で考えて再構築する能力がないからこそ、難しいことを難しいまま伝えることしかできない。

 知識を頭に詰め込むことしかしてこなかった現代の記憶教育の弊害は、こんなところにも現れている。その知識が正しければ良いが、その知識が意図的にねじ曲げられた嘘であった場合、致命的な事態を招くことになる。

 ワクチンが病気を予防するというのも、実は間違った知識であり、そのことを理解するためには、識字率の高さも学歴もあまり関係がない。文字を書けなくても、情報を聞いて正邪を判断することは誰にでもできる。

 現代人に必要なのは、間違った常識に縛られず、自分の頭で1から物事を考え直すことのできる能力であり、その能力というのは、古今東西の学者達が最も必要とした「疑って考える能力」のことを意味している。

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posted by 自由に考える人 at 11:49 | Comment(0) | コラム