2021年08月14日

人を疑うことよりも愚かな行為とは?


■「オレオレ詐欺」で考える「疑心、暗鬼を生ず」

 「疑心暗鬼」という四字熟語がある。略さずに言うと「疑心、暗鬼を生ず」となり、その意味するところは、「疑いの心を抱くと、ありもしない鬼の姿が見えるほど恐ろしくなる」という心の状態を示している。

 仏教的に「疑心」というものは、人間の戒めるべき煩悩の心の1つだと言われており、現代的にも「猜疑心」というものは克服するべき悪しき心の代表格という位置づけになっている。

 しかし、これも時と場合によるのではないかと思う。
 例えば、悪い人間が人を騙そうと画策している時に、「疑心」は戒めるべきなどと言っていると、どんな単純な詐欺にもコロッと引っ掛かってしまうことになる。

 具体的に言えば、「オレオレ詐欺」の電話がかかってきた場合、自分の子供や孫の声と少し違うと思っても、子供や孫を疑ってはいけないという戒めが優先されてしまうと、まんまと騙されて、お金を巻き上げられてしまうことになる。

 その場合、「疑心」を抱くことは悪になるか?というと、もちろん、ならないだろう。悪いのは、人を騙そうとしている側の人間の心であって、その悪人を疑うことではないからだ。

 「疑心」を抱くことは絶対的な悪ではなく、時と場合によることは、こんな単純な例えでも解ることである。

■「善意」と「疑心」の皮肉な関係性

 では、「善意」を持って接触してくる人間に対してはどうだろうか?

 「この株を買えば儲かりますよ」とか、「この薬を飲めば痩せますよ」とか言ってくる人に対して「疑心」を抱くことは悪だろうか? これもケースバイケースであり、「疑心」を抱くことは必ずしも悪にはならない。
 この場合、重要なことは、相手が「善意」の心を持っていたとしても、その人物が語っている言葉は真実かどうかを見極める能力が重要となる。たとえ、相手が善意で語っていたとしても、相手の認識不足により間違ったことを勧めている可能性がある。

 相手の人間性を疑うことは悪に成り得ても、相手の言っていることを疑うことは必ずしも悪にはならない。このことは、相手が間違いを犯さない完全無欠の人間でない限りは成立する。

 もし相手が善意で間違ったことを勧めていた場合、それを見抜けない場合は、あなたも相手も悪を犯していることになる。間違ったことを信じ込み、その間違ったことを家族や周囲の人間にまで拡散してしまった場合は、尚の事だ。

 ゆえに、疑うという行為は時には重要であり、必ずにも悪にはならない。本当の悪というのは、疑うことではなく、真実を見抜けないことだからである。

 最悪なのは、人一倍「猜疑心」が強いにも拘らず、真実を見抜けない人だと言えるだろうか。こういう人は、疑いの心と己の無知から、間違ったことを世間に広め、悪の拡大再生産を続けることが生業になってしまうので、最も愚かな行為を行っている人物ということになる。

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posted by 自由人 at 13:34 | Comment(0) | コラム
2021年07月24日

現代陰謀論考(「陰謀論」のこれから)


■誤解されている「陰謀論者」の特徴

 少し前に「陰謀論を信じている人は低学歴」という話が話題となったことは記憶に新しいが、昨年にもアメリカの心理学研究チームが、陰謀論を信じやすい人には、次のような共通する特徴があると発表して話題になったことがある。

 ○衝動的で自信過剰な人
 ○孤独を好み不機嫌で短気な人

 随分と単純で都合の良い解釈であり、当たっている可能性があるのは「孤独を好む」ぐらいかな…というのが正直な感想だった。少数派は必然的に孤独にならざるを得ないという意味で。

 私自身、一般的に言うところの「陰謀論者」ではないが、最近は「陰謀論」に対して少し見方が変わってきた。
 これまで世の中に出回っている陰謀論は3割位が真実で7割位が嘘だと思っていたが、その割合が逆転し、今では6割位が真実で4割位が嘘程度に変わっており、少し立ち位置を修正しなければいけないかなと思っている。

 今の世の中では、「陰謀論」という言葉を使用した人物が見事に「陰謀」に嵌っているというパターンが多く見られ、誰かが「陰謀論」という言葉を発すると、突如として思考停止に陥り全てを「陰謀論」だと信じてしまう人が多いように思う。

 そう考えると、先の「衝動的で自信過剰な人」「不機嫌で短気な人」というのは、「陰謀論者」の特徴ではなく、「陰謀論者」を否定している人の特徴ではないかと思える。

■「陰謀肯定論者」と「陰謀否定論者」

 現代では、陰謀が有ることを疑う論者のことを「陰謀論者」と呼んでいるが、より正確に言うなら「陰謀肯定論者」ということになるのだろうか。

 では逆に、陰謀が無いと頭から信じている人のことを何と言うのだろうか?

 先の言葉の反意語として言うなら、「陰謀否定論者」となるのだろうか。

 では、「陰謀肯定論者」と「陰謀否定論者」の違いとは何だろうか?

 よく「性悪説」と「性善説」の違いだと言う人がいるが、実際の世の中を見回してみると、必ずしもそうはなっていないので、これは違うと思う。実際に「陰謀肯定論者」と「陰謀否定論者」を観察していると、そこには共通する、ある1つのキーワードが垣間見える。それは「疑う」という行為である。

 まず、世の中にある常識そのものを疑う姿勢が有るか無いか、またはそういった姿勢を持てるかどうか、そして、もし自らが常識だと信じてきたものが間違いだと気付いた時に、これまでの常識を捨て去る勇気と素直さが有るか無いか、それが「陰謀肯定論者」と「陰謀否定論者」を分ける大きな違いだと思う。

■時代は「陰謀論」の正しさの証明に移行している

 「陰謀肯定論者」といっても、生まれた時から「陰謀肯定論者」であるわけではない。人間誰しも生まれた頃は天使のように無邪気で「陰謀」なんて意識していないので、人生のある時点で「陰謀」に気付いたのか、「陰謀論」に興味を持ったかのいずれかだと思う。

 では、「陰謀否定論者」というのはどうかというと、これまで「陰謀」というものに然程興味を持つ機会がなかったということが言えると思う。あるいは「陰謀論」に触れる機会が有ったとしても「こんなのは嘘だ」と十把一絡げで否定した人なのかもしれない。

 しかし、世界の歴史をつぶさに観察すると、この世界は嘘に塗れており、実は大小様々な陰謀が渦巻いている社会であることを発見するに至る。少しでもそういったことを知り得た人であれば、この世の中に陰謀が無いというのは嘘であり、現実を知らないお花畑論者にしか見えないと思う。

 では、「陰謀肯定論者」が全て正しいのかというと、そういうわけでもない。

 重要なことは、本物の「陰謀論」と偽物の「陰謀論」を見分けることであり、その正確さがこれからの社会における1つの学問的な評価基準になるのではないかと思う。

 時代は既に「陰謀」の有る・無いではなく、「陰謀」は有るという前提での、各「陰謀論」の正しさの証明に移行している。

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posted by 自由人 at 18:19 | Comment(0) | コラム
2021年07月16日

「潜在意識」と「バラード」の関係性


■名曲が「潜在意識」に及ぼす屈折した影響力

 よく「潜在意識には嘘が通用しない」と言われる。これがどういう意味かは知る人ぞ知る話であり、万人が理解できる話ではないのかもしれないが、ブログ読者の裾野を広げるという意味では、たまにはこういう風変わりな話も書いた方が良いのかもしれない。

 今回のお題は「潜在意識」と「バラード」の関係について。こんな話を書いている人は誰もいないかもしれないが、ここ何年かで気付いたことを素直に書いてみたいと思う。

 毎年、冬になると山下達郎の代表曲「クリスマス・イブ」が街中で流れる。私も学生時代、山下達郎のファンだったので、この曲の影響力はよく知っている。

 「きっと君は来ない、ひとりきりのクリスマス・イブ、Silent night, Holy night

 まさに芸術的なメロディに乗った曲であり、誰もが口遊みたくなった経験があるのではないかと思う。しかし、ここで問題として取り上げるのは、曲ではなく、そのセンチメンタルな言葉である。上記の言葉を心底良いなあと思い、何度も繰り返し口遊むようになった場合、その人物の潜在意識には、こういう風に伝わることになる。

 「恋人がいないひとりきりのクリスマス・イブは良いものだ

■「表面意識」と「潜在意識」のパラドックス

 表面的には、恋が始まる前段階の心境を切なく綴った歌詞であったとしても、潜在意識的には、その恋が実らないことが切なく素晴らしいことだというニュアンスで伝わることになる。

 解りやすく言うと、あなたの潜在意識下(本心)では、恋人が現れないことを暗に望んでいることになるということ。

 この表面意識と潜在意識のパラドックスを理解できる人が果たしてどれだけいるのか分からないが、誤解を恐れずに書かせていただいた。

 例えば、しみじみとした感傷的なバラード曲で人気を博していた有名な歌手が、そのバラード曲のような哀しい人生を実際に演じてしまったという例もあった。そのニュース報道を観て、バラード曲が潜在意識層にまで強烈に刷り込まれると、本当に現実化するのだな…と少し恐くなったことを覚えている。

 そんな法則性が有ることを露ほども知らずに悲劇の主人公を演じてしまった当の歌手には気の毒で申し訳ないが、こういったニュースも今回の考察を得る1つのヒントになってくれた。

 別にバラード自体を問題視するつもりも、危険だと言うつもりもないのだが、潜在意識に影響を与えるほどセンチメンタルな歌に心酔してしまうと、人生にまで影響を及ぼす可能性が有るということだけは心の片隅に置いておいても損はないと思う。



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posted by 自由人 at 23:07 | Comment(0) | コラム
2021年07月11日

マスメディアの存在価値とは?


■「真水」と「泥水」を分けるのは誰か?

 世の中に出回る「情報」というものをグラスの中に注ぎ込んだとすると、その情報は恰も「水」と「油」のように2つの層に分離されていくことになる。「水」と「油」では例えがややこしくなるので、「真水」と「泥水」に置き換えてみよう。

 グラスに注ぎ込んだ水は、徐々に「真水」と「泥水」の層に分かれていく。人間が飲めるのは「真水」の部分であり、「泥水」は捨て去る、それが一般的な人間が行う正しい選択というものだ。

 この「真水」と「泥水」を分けるのは、あくまでも個々人であって、マスメディアではない。神仏でも聖人でもないマスメディアがお節介にも「真水」と「泥水」を仕分けるようになると、人々には正しい情報が伝わらなくなる危険性がある。

 マスメディアが間違った判断をし、グラスの中に注ぎ込まれる水が「真水」ではなく「泥水」ばかりになった場合、人々は「真水」と「泥水」の区別が付かず、少し綺麗な「泥水」を「真水」と思って飲んでしまい健康を害することになるかもしれない。

 そういった悲劇を避けるためには、何が「真水」で何が「泥水」なのかを知ることが何よりも重要になってくる。しかし、「真水」と「泥水」の違いを教えることは難しい。未来が分からない無知な人間には「真水」と「泥水」の違いを前もって明確に区別することは至難の業であり、もし間違った判断をしてしまった場合、その行為自体が悪になってしまう。

■マスメディアの役割は全ての情報を加工することなく開示すること

 ゆえに、そういった間違いを避けるために本当に重要なことは、人間知で「真水」と「泥水」の違いを分けて教えることではなく、「真水」と「泥水」の両方を、隠すことなく見せることにある。
 正しいか間違っているか分からない様々な情報を余すことなく全て開示し、その膨大な情報の中から何が正しくて何が間違っているのかを各個人が考えて判断する。そうすることで、社会全体として、より良い集合知が形成されていく。それが情報化社会の唯一の利点だとも言える。

 しかし、マスメディアが、事前に「真水」と「泥水」を分けて、彼らが「真水」と思える情報のみを人々に伝えるようになると、人々は「真水」と「泥水」の違いを知らずに、考えることもなく、これは「真水」だと思って、どんな水でも飲み干すようになっていく。

 ここで起こる問題は、「泥水」を見たことがない人々は、「泥水」を「真水」と思って飲み干している可能性が出てくるということである。
 古今東西、独裁国家で起こった問題は、まさにこれであり、限られた情報しか与えられない人間は、何が正しくて何が間違っているのかが分からなくなっていく。

 世の中には「真水」しかないと思い込むようになると、「泥水」を「真水」と思って飲み込み、「真水」を知らないまま人生を終えることもある。まさに知らぬが仏。「真水」だと思って飲んでいた水は実は「泥水」だったという悲劇を終生演じることになってしまう。

 マスメディアの役割は、情報を精査することではなく、全ての情報を加工することなく開示することであり、それを放棄した場合、マスメディアの存在価値は失われる。

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posted by 自由人 at 18:47 | Comment(0) | コラム
2019年12月08日

BLOGOSコメント書き込み停止にみる諸行無常


■残念なBLOGOSコメント書き込み停止

 来年(2020年)の1月一杯でBLOGOSがコメント書き込み機能を停止するという発表があった。
 BLOGOSの転載記事よりもコメント欄を読むことが楽しみだった者からすると、かなり残念な改変だと思えるが、元からコメント欄を閉じられているブロガーも結構いたので、別になんとも思わない人や、逆に良い判断だと思っている人もいるのかもしれない。

 何年か前までは、BLOGOSのコメント欄にはBLOGOSの会員でなくてもコメントすることができた(と記憶している)。当時は現在よりもコメントする人が多かったが、あまりにも匿名性が高いためか、誹謗中傷的なコメントも散見されるようになり、コメント欄を閉じられるブロガーも増えてしまった。

 そのため、コメントはBLOGOSの会員にならないとできないということになった。匿名性が少し低くなったせいか、コメント欄は以前よりも安定した。しかし、コメント数は大きく減少することになってしまった。

 BLOGOS会員には一人一人会員番号が振られており、現状、新しく会員になった人の会員ナンバーは17万台となっているようなので、会員数は17万人位(退会者も含む)いることになるのだろうか。(単純な連番であればの話)
 そう考えると、コメントする人よりもコメントをしないリードオンリーな人の方が圧倒的に多いということになる。

■コメント数と匿名性の皮肉な関係性

 そんな理由もあって、今回の判断に繋がったのかもしれないが、今後はより匿名性が低いFacebookを利用したコメント欄になるらしい。
 現在でも「BLOGOS Facebook」でググれば、Facebookのコメントは読むことができるのだが、コメント数はそれほど多いわけではないようだ。
 BLOGOSの「支持する」よりもFacebookの「いいね」の方が多くなる傾向にあることも、今回の判断に繋がっているのかもしれない。

 コメント数と匿名性の高さは反比例の関係にあることは否定できない。皮肉なことに匿名性が上がれば上がるほどコメント数は増える(閲覧者も増える)ことになる。2チャンネル掲示板にあれだけ多くのコメントが付くことがそのことを如実に証明している。
 営利団体としては匿名性が高ければ高いほどメリットが高くなるが、営利団体としてはリスク回避のために匿名性を低くしていかざるを得ないのかもしれない。

 ネット社会は諸行無常、そんな感想を抱いた。
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posted by 自由人 at 10:52 | Comment(0) | コラム
2019年11月02日

「首里城」火災が暗示するもの


■「首里城」炎上シーンで見えた錯覚

 世界遺産として有名な沖縄の首里城跡に復元された「首里城」の主要な建造物がほぼ全焼した。
 政府は、再度、復元(修復)に全力を傾けるとのことだが、これまでの復元に30年間もかかったわけだから、再び再現されるのはまた30年も先になるのだろうか。そう考えると気の遠くなるような話でもある。

 芸術家や職人が最も嫌がる仕事は、1度作って完成したものをすぐに壊して、また同じものを作ることであるらしい。となると、「首里城」の再復元にも同じことが言えるのかもしれない。

 テレビで「首里城」が炎上している異様な光景を眺めていると、不謹慎ながらも、ふと、近未来を暗示するシーンでも観せられているような錯覚を覚えた。

■沖縄占領という悪夢のシナリオ

 無論、それは中共による沖縄占領という悪夢のシナリオが実現してしまった場合のことを意味しているが、このまま中共がトランプ大統領の中国封じ込め政策に屈せず、覇権主義を拡大していくことになれば、香港を皮切りに、台湾、尖閣、沖縄と軍事的に占領される可能性が無いとは言い切れない。

 そんな悪夢が現実になる可能性を考えると、もしかすると、近い将来、「首里城」が燃えているような光景を我々は目にすることになったのかもしれないな…と思えた。
 このまま、日本がアメリカ任せで何の手も打つことなく傍観すれば、そうなる可能性がありますよという警告のようなシーンだったと言えるのかもしれない。

 ところで、今回の「首里城」出火の原因は未だ判明していない。
 それを良いことに「自民党の陰謀(辞任問題から国民の目を欺くための陰謀)だ」と言っているような陰謀論者もいるみたいだが、流石にそれは無理筋であり考え過ぎだと思う。
 同時に「(首里城出火は)自民党が安全対策を怠ったからだ」という意見もあるぐらいなので、そのような陰謀説は成り立たないと思う。

 自然出火であったのか、物理的な出火事故であったのか、それとも放火事件であったのかは不明だが、沖縄の象徴とも言える「首里城」が炎上したことは、先に述べたことも含めて、いろんな意味でショッキングな出来事だったと言える。

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posted by 自由人 at 07:59 | Comment(0) | コラム
2019年07月29日

「情報弱者」という言葉の定義を考える


■「情報」に「強い・弱い」は妥当か?

 前回の記事で「情報弱者」についての考察を書いてみると、案の定、様々な反論を頂いた。
 「情報弱者」とはネット検索によって能動的に正しい情報を得ようとしない人のことを指すという反論が散見された。要するに、情報リテラシーの問題ということになるのだろうか。

 現状における「情報弱者」の定義はその通りなのだろうけれど、頭を1度ゼロクリアして「情報弱者」という言葉を考えてみると、少し疑問点が生じると思う。

 「情報弱者」とは、その言葉通り「情報に弱い者」という意味になるが、そもそも情報には2種類ある。それはもちろん、「正しい情報」と「間違った情報」のことだが、この言葉を補えば、以下の4つのパターンがあることになる。

 ●正しい情報に強い者
 ●正しい情報に弱い者
 ●間違った情報に強い者
 ●間違った情報に弱い者


 ここで少なからず違和感を感じるのは、情報に対して「強い」とか「弱い」という言葉を使用することは本当に正しい使い方か?ということである。
 本来であれば、情報に強いか弱いかではなく、情報識別力が高いか低いかと言った方がピッタリすると思う。

 当初、「情報弱者」とは、ネットで情報にアクセスできる人とできない人の差を指した言葉だったと思うが、いつの頃からか、その情報にアクセスできることを前提として、その情報が正しい情報か間違った情報かを分別できない人のことを「情報弱者」と呼ぶようになった。

 例えば、偏った新聞やテレビの報道をそのまま鵜呑みにしかできない層を「情報弱者」と呼ぶ向きがあるが、その場合は「情報識別力が低い人」と言うのが正しいと思う。思想的なものを含まないなら「情報リテラシーが低い人」と言い換えることも可能かもしれないが、「情報弱者」にも段階があり、その辺が曖昧になっているため、無闇矢鱈に「情弱」という言葉を使用するのは可笑しいという遠回しな皮肉を書いたつもりが、あらぬ誤解を招いてしまったらしい。

■「情報識別力」が「高い・低い」が正しい

 ある保守系の言論人の批判を書いたのも、普段、どれだけ情報の正しさを識別する能力を有している人物であろうと、識別するべき情報を精査せずに論評してしまうと、その人物はいとも容易く情報弱者(情報識別力が低い人)になってしまうという皮肉を書いたまでのことで、別に保守系の論客を否定しているわけではない。

 個人的には、情報識別力というのは、知識量とはあまり関係がないと思っている。たとえ1万冊の書物を読んだ人であっても、その人物が必ずしも情報識別力が高いとは限らないし、本をほとんど読まない人でも情報識別力が高い人は大勢いると思う。読書はその能力を高める役目を果たすツールには成り得ても、それが万人に適用できるわけでもない。

 情報識別力の高い人と情報識別力の低い人の違いは、結局のところ、物事の本質を見抜く鑑識眼の高い人と低い人の違いでしかないと思う。どれだけ高学歴であろうと、どれだけ知能指数が高かろうと、鑑識眼の高低とはあまり関係が無いと思う。現実を見ても、実際にそうなっていることは誰もが認めるところではないだろうか。

 情報識別力が高いというのは、直感が鋭いとか、洞察力が鋭いとか、そういう類いの能力の1つだと思う。如何に論理的であっても、その論理自体が嘘である場合は見抜けない人が出てくる。肝心なのはその論理の嘘まで見抜ける能力が有るかどうかが問われることになる。だからベクトル的には、能力が強い、能力が弱いではなく、能力が高い、能力が低いとした方が正しい使い方だと思う。

 つまり、本来の言葉の定義から外れて「情報弱者」という言葉自体が拡大解釈されて独り歩きしているということ。それが結論になる。
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posted by 自由人 at 00:09 | Comment(0) | コラム
2019年07月28日

現代における「無知の知」【全ての人間は「情報弱者」】


■曖昧な「情報弱者」という言葉

 現代では既に市民権を得た言葉に「情報弱者(情弱)」というものがある。誰でも無料で広範な知識が得られるネット情報社会になってから、頻繁に耳にするようになった言葉でもある。
 毎日のように、多くの人が、事ある度(自分より知識が無いと思う人を見つける度)に「情弱」という言葉をドヤ顔で語るシーンを目にするようになったが、「情報強者」と「情報弱者」との間にはたしてどれだけの差が有るのだろうか?

 ある特定の分野(例えば、コンピューター知識、医学知識)における個人の情報差は埋め難い程に開いているのかもしれないが、ジャンルを分けなければ総情報量には埋め難い程の開きは無いかもしれない。ネット情報社会以前に、これだけ膨大な知識が氾濫している人間社会で、全てのジャンルにおいて情報量が勝っている人など皆無に等しいと言える。

 例えば、会社の先輩と後輩を比べても、仕事の知識量は先輩の方が勝っている場合があったとしても、その他の趣味などの種々雑多な情報量を比べてみると、必ずしも年長者が勝っているとは言えない。ジャンルによっては、その関係性は全く逆の場合も有る。

 現代社会に溢れる膨大な知識の洪水の前には誰もが無力であり、誰もが情報弱者だと言える。現代における「情報強者」「情報弱者」とは、ある特定のジャンルに限って使用することが許される言葉でしかないのかもしれない。

■医療に限定した「情報強者」論

 現代は、専門の学者よりも知識を持った一般人が大勢いる時代とも言われている。先程述べた医学知識等についても医者よりも詳しい一般人もいる。(ここでいう「医学知識」とは専門の医療用語のことではなく病気を治す知識のこと)

 一口に医療と言っても内科・外科・整形外科・神経科・泌尿器科・耳鼻科等々、様々な区分け(ジャンル)があり、1人の医者が全ての知識を有しているわけではない。分野の違う医療知識はほとんど皆無という医者も大勢いる。その証拠に処方する薬の副作用がバッティングしても分からないというケース(所謂、ポリファーマシー※問題)も多々ある。
 実際に私の知人も、内科で処方された薬と神経科で処方された薬の相性が合わず思わぬ副作用が生じたケースがある。そういう場合は、薬の専門家である薬剤師にでも相談しなければ、副作用の原因が判らない。

※服用する薬剤が多いことで発生する薬物有害事象(副作用)

 全てのジャンルにおいて医学知識が勝っている万能の医者など存在しない。内科における「情報強者」、外科における「情報強者」がいたとしても、全ての医療分野における「情報強者」というのは存在しない。

■現代人にも当て嵌まる「無知の知」

 医療に限定した例え話を書いてみたが、人間社会における「情報強者」理論もこれと同じ理屈であり、特定の分野における「情報強者」は存在し得ても、全ての分野における「情報強者」は存在しない。

 より大きな視点で観れば、全ての人間は情報弱者でしかない。そのことを認識せず、無闇矢鱈に「情報弱者(情弱)」という言葉を用いて他人を批判することは、自らが本当の情報を知らないことをアピールしているようなものかもしれない。

 先日も、ある著名な保守系の言論人が、畑違いの医療の話を書いている本を読んでみたが、全く見当外れなことを書かれておりゲンナリしてしまった。参考資料を調べもせず(調べても解らない場合もある)、思い込みやイメージだけで自らの専門分野以外のことに口出しするとボロが出る典型を見た思いがした。

 ソクラテスが説いた「無知の知」とは現代におけるドヤ顔知識人にもピッタリと当て嵌まる言葉なのかもしれない。
 ソクラテス風に言うなら、自らが「情報強者」であると自惚れた時に、その人物は既に自らを「情報弱者」と認識している人以上に「無知」なのである。

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posted by 自由人 at 00:17 | Comment(0) | コラム
2019年07月13日

「日本的経営は世界の非常識」


■「電波怪獣」竹村健一氏の死去

 今週は日本の芸能界を牽引してきたジャニーズ事務所のジャニー喜多川氏が死去されたことで大きな話題となっていたが、その陰に隠れた形で、日本の言論界を牽引してきた竹村健一氏が死去されたというニュースが出ていた。

 最近はジャニー喜多川氏同様、竹村健一氏もメディアには全くと言っていいほど姿を見せていなかったが、昔は「電波怪獣」と言われただけあって、数多くのメディアに出演されていた。建前ばかりのテレビ界にあって、1人本音を語り、異彩を放つ憎めないキャラクターだった。

 私が竹村健一氏の本を初めて読んだのは学生時代だったと記憶しているが、難しい事柄を平易な文章で説明する文体は読み易く、その後、多くの本を読ませていただいた。ちなみに、竹村氏の場合、口述筆記で有名だったので、文章自体は別人が書いていたのかもしれない。

■「日本の常識は世界の非常識」

 竹村氏が残した有名な言葉に以下のようなものがある。

 「日本の常識は世界の非常識

 戦後、他国とは物理的に隔絶された島国環境にあった我が国では、戦勝国による思想統制の影響によって、戦前の常識は悉く否定されることになり、日本独自の文化というものが多々生まれた。

 最近では「常識を疑え」と言っている識者も大勢いるが、大抵の人は、生まれた環境に既に根付いた常識を疑おうとはしない。どんな不条理な常識であっても空気のように受け入れる人が大勢を占めているので、「日本の常識は世界の非常識」のままであることが多い。

 「憲法9条があるから戦争は起こらない」という日本の常識も、そのまま鵜呑みにしている人も少なくない。
 あるいは、「謝罪は美徳」というような日本の常識も、世界(特にアジア)では通用しない。

■「日本的経営は素晴らしい」という常識

 少し毛色を変えると、「日本的経営は素晴らしい」というのも、日本でしか通用しない常識だとも言える。
 日本では昔から「和をもって尊しとなす」と言われ続けてきたので、その言葉に結び付けて「日本的経営は素晴らしい」とする向きがある。しかし、これは少し曲解されている部分があると思う。
 
 日本では、仕事のできる人間が仕事のできない人間を延々とカバーすることをもって「日本的経営は素晴らしい」と思われているフシがある。
 「仕事のできる人間は文句を言わず、仕事のできない人間の分まで仕事をして、給料もなるべく平等に分けることが尊い」という風に受け止められているような気もする。

 健常者が病人や障害者の分をカバーするのは当然のことだと思うが、単に仕事をしない人間、やる気のない人間の分までカバーしなければならないとなると、「共産主義的経営は素晴らしい」になってしまう。

 共産主義には「各人は能力に応じて働き、必要に応じて受け取る(分配される)」というような考え方があるが、「日本的経営」には、この言葉を実践していると思われる部分がある。
 「仕事をしない人間は能力に応じて働き、必要なだけの報酬を得ることができる」というような仕事をしない労働者の楽園思想が「日本的経営」に入り込んでしまっている。

 聖徳太子が言った「和をもって尊しとなす」とは、世界の常識と成り得る言葉だと思われるが、日本では少し屈折した意味合いで認識・利用されているところがある。

 公平性に重きを置く欧米社会では、仕事のできる人と仕事ができない人には公平な差が開くことは常識として受け入れられている。
 しかし、平等性に重きを置く日本社会では、仕事のできる人と仕事ができない人をなるべく平等に扱うことが尊しとされる。これぞまさに「日本の常識は世界の非常識」の見本だと言えるのかもしれない。


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posted by 自由人 at 07:49 | Comment(0) | コラム
2019年05月07日

天皇の存在理由(レーゾンデートル)とは?


■条件次第では「万世一系は虚構」でも構わない

 前回の記事で、「万世一系は虚構」とのコメントを頂いた。BLOGOSの転載記事にも似たようなコメントが見られたので、この件で少し補足記事を書いておこうと思う。

 それ以前に、「天照大神は女性なので、女系では?」という意見があったが、原初は男性でも女性でも構わない。それが男女差別ではない証拠だとも言える(むしろ女性優位とも言える)ので、これについてはこれ以上は書かない。

 本題の「万世一系は虚構」の方を述べると、これは確かにその可能性は有ると思う。血縁に繋がりが有るという説に嘘が無いことを信じたいが、それは残念ながら判らない。
 実際、現代に生きている人間でも自分自身の血縁がどこでどうなっているかなんて分からない。先祖代々などと言っていても、諸々の事情で先祖の血は入っていないというようなケースは多々ある。

 そういったことが天皇家には無かったと信じたいところだが、残念ながらそれは誰にも証明できない。ついでに言うなら、有ったということも誰にも証明できない。

 しかし、歴史的な文献であっても、はたしてどこまで真実かは分からない。文献というものは如何なる大著であったとしても、ドライブレコーダーや隠しカメラのように24時間の出来事が全て記録されているわけではない。
 評伝や自伝でも、読者の知ることができるのはほんの一部でしかない。その人物が心の中で何を考えていたか、全てを知ることは不可能であることは、よく考えれば解ることだと思う。血縁が100%正しいと証明できないのと同様に、文献も100%正しいとは証明できない。

■最も重要なことは、天皇の「威厳」

 「それでは、天皇の血筋を証明できないではないか!」と言う人がいるかもしれない。その通り、しかし、それでいいと思う。大体、血筋だけで人間が決まるというなら、それこそ差別だということになってしまいかねない。

 では、何が重要なのかと言うと、最終的には「国民に対して威厳を保てるかどうか」ということ。
 天皇=日本教に必要不可欠なのは、目に見えない高貴で崇高な価値であり、そういったものが観念的に理解できない人には、「血縁」という方便を用いる必要が有るので、「男系」に拘らなければならなくなっているということだろうと思う。

 万人が天皇という存在を受け入れるためには、目に見える形としての「男系」が必要になっているというだけで、仮に「血縁」が無かったことが科学的に証明されれば天皇を辞めなければならないのかと言えば、そんなことはない。国民に対して威厳を保てている天皇であれば、辞める必要は無い。

 重要なことは、天皇の存在が見えない規範となって国民を律する存在と成り得るかどうか。そこがキーポイントになる。

 GHQが天皇制を廃止することをなぜ恐れたのか? その理由を考えれば、天皇の存在理由(レーゾンデートル)が見えてくる。それは「血縁」でもなければ「男系」でもない、天皇の「威厳」、それこそが日本人にとって最も重要な価値の1つだった。しかして、そのことを万人が理解するためには、「男系」である必要があるということ。



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posted by 自由人 at 23:47 | Comment(0) | コラム