2021年06月10日

「テレビからの脱皮」が日本を救う


■「地上波、初登場」という時代遅れな言葉

 昔、テレビを観ていると、「地上波、初登場」というような宣伝文句がよく聞かれた。

 具体的に何を意味しているのかというと、「映画館で上映した映画がテレビで初放送されます」という意味であり、早い話、「無料で映画が観れますよ」というコマーシャル。

 現在では、映画上映後、早ければ3ヶ月もすればDVDソフトが発売・レンタルされるし、デジタル配信ではもっと早くリリースされることもある。そんな状況で、映画上映後、1年以上経過してから「地上波、初登場!」などとご大層な宣伝をされても、「は? 今頃、何を言っているの?」ということになってしまう。

 個人的に、映画をテレビ放送で観るようなことは、もう20年以上経験していないと思うが、それはさておき、最近のテレビ放送の劣化ぶりには目を覆いたくなる。特にニュース番組やワイドショーは、どこぞの国の全体主義放送のような様相を呈しており、観ることに苦痛を感じるようになってしまった。

■日本がまともな国になるために必要なこと

 これまでは朝の通勤途中にカーナビに搭載されているテレビでニュース番組を観るのが日課だったのだが、最近は観れなくなってしまった。これまで、ニュース番組でおかしなことを言っていると、独りツッコミを入れることがストレス解消になっていたが、最近は、ツッコミどころがあまりにも多過ぎて逆にストレスがたまり疲れるようになってしまった。

 こういう状態は、どう考えても精神衛生上よろしくないと思われ、自らの良心がテレビを観ることに拒絶反応を示しているようにも感じる。それゆえ、テレビを観るのを止めて、音楽を聞いて通勤するスタイルに変更した。明らかにこちらの方が、精神衛生上まともだと言える。

 こんなことならフルセグのカーナビなど買わなければよかったと後悔しているが、今後、自宅にあるテレビが壊れたとしても新しくテレビを買うことはないと思う。映画等の映像を観るためにディスプレイを買い換えることは有り得ても、チューナー付きのテレビはもう必要ないと思うに至った次第。自宅にテレビが無くなれば、遠慮なくNHKも解約できるので、良いことずくめかもしれない。

 テレビは昔から「国民洗脳装置」と言われてきた代物だが、この1年間で、その言葉の意味を心底実感した。

 テレビに始まり、テレビに終わる。日本がまともな国になるために必要なことは「テレビからの脱皮」なのかもしれない。

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posted by 自由人 at 23:40 | Comment(0) | 社会問題
2021年05月24日

インフルエンザが激減してもインフルエンザワクチンは必要か?


■700分の1になったインフルエンザ感染者

 昨年度のインフルエンザの感染者数(推定数)は14000人程度だった。例年は1000万人以上いる(推定数)と発表されているので、実に700分の1になった計算になる。

 しかし、1000万人の感染者がいる場合でもワクチン接種は任意であり、コロナのように大々的なワクチン接種の推奨は行われていない。この件だけ見ても、現在の国を挙げてのワクチン接種は行き過ぎの感は否めない。
 特に若年者に至ってはコロナに感染しても重症化せずに死亡する確率もほぼ0%であるにも拘らず、若年者でも重症化または死亡する可能性の有るワクチンを推奨するというのは、リスク回避になっておらず本末転倒だとも言える。

 コロナワクチンについては、あーだの、こーだの書いても、端から思考することを拒否し、なぜか言葉として頭に入らない人が多いようなので、今回は少し見方を変えて、インフルエンザワクチンにスポットライトを当てて、考えてみたいと思う。

 昨年、14000人しかいなかったということになっているインフルエンザ感染者、この数値はあくまでも推定値であり、実際に検査をして陽性になった数値ではない。ということは、本当に症状のあった感染者数は桁違いに少なかっただろうことは誰にでも解ると思う。

■今年のインフルエンザワクチン接種はどうなるか?

 さて、毎年、1000万人もの感染者がいるがために、毎年、ワクチンを接種していた人は、今年はどうするのだろうか?
 コロナ禍ではインフルエンザの感染者がほとんど出ないことが判明しても、例年通りにインフルエンザワクチンを打つのだろうか? また、国はインフルエンザワクチンの接種まで後押しするのだろうか?

 インフルエンザの検査自体がごく稀にしか行われていないので、感染者数が700分の1になったというのはかなり疑わしいものがあるが、コロナの感染者数を足しても例年よりも圧倒的に少ないので、インフルエンザの感染者数が大きく減少したことは間違いないのだろう。そんな状況でも、インフルエンザワクチンを接種する必要があるのだろうか?

 全国でわずか数人、数十人の死亡者が出るという理由で、ワクチンを接種するような感染症が今までに有っただろうか?

■狂犬病ワクチンで考えるインフルエンザワクチン

 ちなみに、犬の世界では、狂犬病ワクチンというものがある。現代の日本では狂犬病を発症する犬はほぼ皆無であり、犬に咬まれて狂犬病を患う人もまずいない。いるとすれば、海外旅行に出かけ、旅行先で犬に噛まれた人が発症する程度。この50年間における日本での狂犬病死亡者は4人となっており、いずれもが海外で犬に咬まれて発症したケースとなっている。

 それでも、毎年、国内のペット犬には狂犬病予防の注射が行われている。しかし反面、狂犬病ワクチンを打ったことが原因で亡くなるペットもいる。愛犬が狂犬病ワクチンが原因で死んだとしても、「どんなワクチンでも副作用は付きもの」という理由で諦める人がいる。狂犬病を発病する確率が限りなく0に近くても、愛犬の死を素直に受け入れる人がいる。

 狂犬病ワクチン同様、インフルエンザワクチンの接種でも、毎年、何人かの人が亡くなっている。昨年、症状の出た感染者はほとんどいなかったということになっているが、インフルエンザワクチンを接種したことで亡くなった人もいたことだろう。

 しかし、これでは結果的に、先の狂犬病ワクチンとあまり変わらないことになる。
 僅かな死亡者しか出ない状況下で、インフルエンザで死亡する確率とインフルエンザワクチンの副作用で死亡する確率を天秤にかけると、その差があまりにも小さいどころか、逆にワクチンを接種したことで死亡する確率の方が高くなってしまう可能性がある。これでは、リスクの方がベネフィットよりも重くなってしまうことになる。

 感染者がほとんどいないのに、いらぬリスクを背負ってワクチンを接種する必要が有るのだろうか? これはあらゆるワクチンについて言えることでもある。



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posted by 自由人 at 22:31 | Comment(0) | 社会問題
2021年05月05日

コロナ禍での「緊急事態条項」は「諸刃の剣」


■もしインフルエンザに「緊急事態条項」を適用すれば?

 コロナが流行り出した頃、諸外国からの入国を即座に禁止するためには「政府にもっと強権を発動する権利を与えなければならない」ということで、憲法に「緊急事態条項」を設ける必要があるという声が大きくなった。

 確かにコロナがペストやコレラ並に危険なものだと思われていた初動の段階では、これは正論に聞こえた。しかし、それから1年経った現在では、少なくとも日本でのコロナはインフルエンザ以下の被害しか発生していないことが明らかになった。

 「緊急事態条項」は、戦争(他国からの侵略)や大地震等による大規模な災害時には適用する必要が有ると思われるが、現在のコロナ禍に適用するのは非常に危険な選択になる可能性があることは否定できない。

 コロナ禍以前の常識では、「緊急事態条項」を否定するのは左翼と決まっていたが、コロナ禍以後は、そうでは無くなった。本当の危機の前では必要なものでも、その危機が本当に深刻な危機ではなかった場合、あるいは、その危機が人々の無知から生じた誤解であった場合、政府の強権の発動を無条件に許す「緊急事態条項」は、諸刃の剣となる危険性があるということを知る必要があると思う。

■「諸刃の剣」となった「緊急事態条項」

 例えば、インフルエンザの流行で「緊急事態条項」を発動し、要請のみの「緊急事態宣言」ではなく、「ロックダウン」が強行された場合を考えれば、その危険性がよく解ると思う。

 国家の命運を左右するほどの危機ではないインフルエンザの流行に対して「ロックダウン」を行い国民の経済活動を完全に停止してしまうと、その結果として国が滅びる危険性が生じることになる。国が滅びないまでも、多くの国民の生活が破綻してしまい、経済的な理由によって、多くの国民が塗炭の苦しみを味わうことになり、多くの人が自殺を余儀無くされるという事態に成りかねない。

 本当の危機でそうなるなら、まだ諦めも付くだろうが、大した危機でもないにも拘らず、そのような結果を招くことは許されることではない。「無知や誤解で多くの国民が死亡することになりました」では済まされない。

 ゆえに前回の記事では、保守であっても「緊急事態条項」の追加は条件反射的に喜べるものではないと書かせてもらった。これまでの常識では、「緊急事態条項」の創設を否定するのは、先にも述べた通り、国家破壊願望を抱いた左翼と決まっていたが、コロナ禍という未体験ゾーンの出来事が発生したことで、その常識も崩れ去った。

 逆に考えると、「緊急事態条項」の創設を望むのは保守派だけではなくなったということでもある。危機でもないものに「緊急事態条項」を適用し、国を破壊することができる危険性が生まれたということを知らねばならない。

 「緊急事態条項」は、「諸刃の剣」となる危険性があるものに変わってしまったのである。

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posted by 自由人 at 11:39 | Comment(0) | 社会問題
2021年05月04日

新型コロナウイルスの常識破壊【憲法改正の実現】


■「憲法改正の世論調査」で「賛成」が上回った理由

 74回目の「憲法記念日」ということで各メディアで行われた「憲法改正の世論調査」の結果は以下の通りだった。

 ○読売新聞 賛成56% 反対40%

 ○産経新聞 賛成52% 反対34%

 ○朝日新聞 賛成45% 反対44%

 ○毎日新聞 賛成48% 反対31%

 ○NHK  賛成33% 反対20%


 意外にも全てのメディアの結果が、「賛成」が「反対」を上回ったということで「ついに憲法の改正ができる」と騒ぎになっているようだ。

 この結果については素直に喜びたいとは思う。しかし、おそらく今回の世論調査の結果は、コロナ禍における「緊急事態条項」の改正(追加)が含まれており、「憲法9条」の改正を指しているものだけではないのではないかと思われる。
 政府が国民の意見を無視して強引にでもロックダウンができるような法律が必要だという意味での「賛成」が多分に含まれているのではないかと想像する。

■護憲派のジレンマが「憲法改正」を招く

 「憲法9条」を死守したいと思っている人(護憲派)というのは、基本的にリベラルな社会主義者が多いので、「緊急事態条項」には反対を示す傾向にあるのだが、同時にコロナを極度に恐れてロックダウンを望むような人も多いため、憲法の改正を望む方向に傾いたのではないだろうか。
 表向きには国家権力を否定しつつも、無意識的に国家権力に管理されることを望んでいるという矛盾した思想が顕在化してしまった格好だとも言える。

 護憲派とて、日本国憲法を一言一句変えたくないというわけではなく、「憲法9条」に無関係な部分については変えても構わないという本音が現れたのが、今回の世論調査の結果なのかもしれない。

 しかし、少しでも憲法を変えてしまうと、その勢いに乗って「憲法9条も変更してもいいのではないか」という世論が巻き起こるのを恐れていることも間違いのないところだろうと思う。

 今回のコロナ禍は、皮肉なことに憲法改正の先鞭を着ける切っ掛けになるかもしれない。コロナ禍に対する恐怖感が護憲派の心情にジレンマを生じさせたことで、これまで微動だにしなかった日本国憲法という化石化した聖典に風穴が空くことになるかもしれない。

 この好機を逃さずに憲法改正が実現することを期待したいところだが、保守派の中には「緊急事態条項」の新設は必要無いと思う人も多いと思われる(私もその1人)ので、保守派にとってもジレンマになるかもしれない。



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posted by 自由人 at 07:14 | Comment(0) | 社会問題
2021年04月04日

「新しい生活様式」の行き着く先はアバター生活


■人類未体験の新しい生活様式を目指す「ムーンショット」

 コロナ禍によって「新しい生活様式」という言葉が生まれた。

 この「新しい生活様式」とは、コロナと共存していく上で基本となる生活スタイルの変化を意味しており、三密を回避した生活に始まり、人と人との接触を極力避けるという意味が込められている。

 しかし、そういった生活はまだ入り口に過ぎず、政府は、もっと進んだ人類未体験の生活を目標としている。それが「ムーンショット目標」と呼ばれるもので、2050年までに、人が身体、脳、空間、時間の制約から解放された社会を実現すると謳われている。

 その新しい生活様式の1つは、「サイバネティック・アバター生活」と呼ばれており、以下の目標が定められている。

2030年までに、望む人は誰でも特定のタスクに対して、身体的能力、認知能力及び知覚能力を強化できる技術を開発し、社会通念を踏まえた新しい生活様式を提案する。

2050年までに、望む人は誰でも身体的能力、認知能力及び知覚能力をトップレベルまで拡張できる技術を開発し、社会通念を踏まえた新しい生活様式を普及させる。

引用サイト:内閣府ムーンショット目標1

■映画『サロゲート』のような社会は実現するのか?

 「ムーンショット」とは、その言葉が示す通り、人類の月面着陸に例えて「未来社会を展望し、困難な、あるいは莫大な費用がかかるが、実現すれば大きなインパクトをもたらす壮大な目標や挑戦を意味する言葉」の総称だが、日本での「ムーンショット目標」は奇しくもコロナ感染が取り沙汰された昨年の1月に決定された。

 人間がアバターを操作して仮想現実的な生活を行うなどと言えば、「妄想だ!」とか「都市伝説だ!」と批判されそうだが、実際に国(内閣府)が発表しているリアルな情報である。

 昔、人間がアバターを操作して生活する世界を描いた『サロゲート』という映画があったが、まさにあのような世界を目標としていることになる。

 まるで遠い未来を予想したSFのような話であり、そんなSF映画のような社会が、今後わずか30年程度で本当に実現できるのかは信じ難いというのが率直な感想だが、国がそういった社会を目標としていることは事実だ。

 キーワードとなるのは、「身体」「」「空間」「時間」からの解放となっているが、「身体」「空間」「時間」はまだ理解できるが、「脳」からの解放というのがよく解らない。
 自分の意のままに操ることのできるアバターロボットがあれば、「身体」「空間」「時間」からの解放は可能かもしれないが、「脳」からどうやって解放されるのだろうか?



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posted by 自由人 at 13:46 | Comment(0) | 社会問題