2021年06月10日

「テレビからの脱皮」が日本を救う


■「地上波、初登場」という時代遅れな言葉

 昔、テレビを観ていると、「地上波、初登場」というような宣伝文句がよく聞かれた。

 具体的に何を意味しているのかというと、「映画館で上映した映画がテレビで初放送されます」という意味であり、早い話、「無料で映画が観れますよ」というコマーシャル。

 現在では、映画上映後、早ければ3ヶ月もすればDVDソフトが発売・レンタルされるし、デジタル配信ではもっと早くリリースされることもある。そんな状況で、映画上映後、1年以上経過してから「地上波、初登場!」などとご大層な宣伝をされても、「は? 今頃、何を言っているの?」ということになってしまう。

 個人的に、映画をテレビ放送で観るようなことは、もう20年以上経験していないと思うが、それはさておき、最近のテレビ放送の劣化ぶりには目を覆いたくなる。特にニュース番組やワイドショーは、どこぞの国の全体主義放送のような様相を呈しており、観ることに苦痛を感じるようになってしまった。

■日本がまともな国になるために必要なこと

 これまでは朝の通勤途中にカーナビに搭載されているテレビでニュース番組を観るのが日課だったのだが、最近は観れなくなってしまった。これまで、ニュース番組でおかしなことを言っていると、独りツッコミを入れることがストレス解消になっていたが、最近は、ツッコミどころがあまりにも多過ぎて逆にストレスがたまり疲れるようになってしまった。

 こういう状態は、どう考えても精神衛生上よろしくないと思われ、自らの良心がテレビを観ることに拒絶反応を示しているようにも感じる。それゆえ、テレビを観るのを止めて、音楽を聞いて通勤するスタイルに変更した。明らかにこちらの方が、精神衛生上まともだと言える。

 こんなことならフルセグのカーナビなど買わなければよかったと後悔しているが、今後、自宅にあるテレビが壊れたとしても新しくテレビを買うことはないと思う。映画等の映像を観るためにディスプレイを買い換えることは有り得ても、チューナー付きのテレビはもう必要ないと思うに至った次第。自宅にテレビが無くなれば、遠慮なくNHKも解約できるので、良いことずくめかもしれない。

 テレビは昔から「国民洗脳装置」と言われてきた代物だが、この1年間で、その言葉の意味を心底実感した。

 テレビに始まり、テレビに終わる。日本がまともな国になるために必要なことは「テレビからの脱皮」なのかもしれない。

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posted by 自由人 at 23:40 | Comment(0) | 社会問題
2021年05月24日

インフルエンザが激減してもインフルエンザワクチンは必要か?


■700分の1になったインフルエンザ感染者

 昨年度のインフルエンザの感染者数(推定数)は14000人程度だった。例年は1000万人以上いる(推定数)と発表されているので、実に700分の1になった計算になる。

 しかし、1000万人の感染者がいる場合でもワクチン接種は任意であり、コロナのように大々的なワクチン接種の推奨は行われていない。この件だけ見ても、現在の国を挙げてのワクチン接種は行き過ぎの感は否めない。
 特に若年者に至ってはコロナに感染しても重症化せずに死亡する確率もほぼ0%であるにも拘らず、若年者でも重症化または死亡する可能性の有るワクチンを推奨するというのは、リスク回避になっておらず本末転倒だとも言える。

 コロナワクチンについては、あーだの、こーだの書いても、端から思考することを拒否し、なぜか言葉として頭に入らない人が多いようなので、今回は少し見方を変えて、インフルエンザワクチンにスポットライトを当てて、考えてみたいと思う。

 昨年、14000人しかいなかったということになっているインフルエンザ感染者、この数値はあくまでも推定値であり、実際に検査をして陽性になった数値ではない。ということは、本当に症状のあった感染者数は桁違いに少なかっただろうことは誰にでも解ると思う。

■今年のインフルエンザワクチン接種はどうなるか?

 さて、毎年、1000万人もの感染者がいるがために、毎年、ワクチンを接種していた人は、今年はどうするのだろうか?
 コロナ禍ではインフルエンザの感染者がほとんど出ないことが判明しても、例年通りにインフルエンザワクチンを打つのだろうか? また、国はインフルエンザワクチンの接種まで後押しするのだろうか?

 インフルエンザの検査自体がごく稀にしか行われていないので、感染者数が700分の1になったというのはかなり疑わしいものがあるが、コロナの感染者数を足しても例年よりも圧倒的に少ないので、インフルエンザの感染者数が大きく減少したことは間違いないのだろう。そんな状況でも、インフルエンザワクチンを接種する必要があるのだろうか?

 全国でわずか数人、数十人の死亡者が出るという理由で、ワクチンを接種するような感染症が今までに有っただろうか?

■狂犬病ワクチンで考えるインフルエンザワクチン

 ちなみに、犬の世界では、狂犬病ワクチンというものがある。現代の日本では狂犬病を発症する犬はほぼ皆無であり、犬に咬まれて狂犬病を患う人もまずいない。いるとすれば、海外旅行に出かけ、旅行先で犬に噛まれた人が発症する程度。この50年間における日本での狂犬病死亡者は4人となっており、いずれもが海外で犬に咬まれて発症したケースとなっている。

 それでも、毎年、国内のペット犬には狂犬病予防の注射が行われている。しかし反面、狂犬病ワクチンを打ったことが原因で亡くなるペットもいる。愛犬が狂犬病ワクチンが原因で死んだとしても、「どんなワクチンでも副作用は付きもの」という理由で諦める人がいる。狂犬病を発病する確率が限りなく0に近くても、愛犬の死を素直に受け入れる人がいる。

 狂犬病ワクチン同様、インフルエンザワクチンの接種でも、毎年、何人かの人が亡くなっている。昨年、症状の出た感染者はほとんどいなかったということになっているが、インフルエンザワクチンを接種したことで亡くなった人もいたことだろう。

 しかし、これでは結果的に、先の狂犬病ワクチンとあまり変わらないことになる。
 僅かな死亡者しか出ない状況下で、インフルエンザで死亡する確率とインフルエンザワクチンの副作用で死亡する確率を天秤にかけると、その差があまりにも小さいどころか、逆にワクチンを接種したことで死亡する確率の方が高くなってしまう可能性がある。これでは、リスクの方がベネフィットよりも重くなってしまうことになる。

 感染者がほとんどいないのに、いらぬリスクを背負ってワクチンを接種する必要が有るのだろうか? これはあらゆるワクチンについて言えることでもある。



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posted by 自由人 at 22:31 | Comment(0) | 社会問題
2021年05月05日

コロナ禍での「緊急事態条項」は「諸刃の剣」


■もしインフルエンザに「緊急事態条項」を適用すれば?

 コロナが流行り出した頃、諸外国からの入国を即座に禁止するためには「政府にもっと強権を発動する権利を与えなければならない」ということで、憲法に「緊急事態条項」を設ける必要があるという声が大きくなった。

 確かにコロナがペストやコレラ並に危険なものだと思われていた初動の段階では、これは正論に聞こえた。しかし、それから1年経った現在では、少なくとも日本でのコロナはインフルエンザ以下の被害しか発生していないことが明らかになった。

 「緊急事態条項」は、戦争(他国からの侵略)や大地震等による大規模な災害時には適用する必要が有ると思われるが、現在のコロナ禍に適用するのは非常に危険な選択になる可能性があることは否定できない。

 コロナ禍以前の常識では、「緊急事態条項」を否定するのは左翼と決まっていたが、コロナ禍以後は、そうでは無くなった。本当の危機の前では必要なものでも、その危機が本当に深刻な危機ではなかった場合、あるいは、その危機が人々の無知から生じた誤解であった場合、政府の強権の発動を無条件に許す「緊急事態条項」は、諸刃の剣となる危険性があるということを知る必要があると思う。

■「諸刃の剣」となった「緊急事態条項」

 例えば、インフルエンザの流行で「緊急事態条項」を発動し、要請のみの「緊急事態宣言」ではなく、「ロックダウン」が強行された場合を考えれば、その危険性がよく解ると思う。

 国家の命運を左右するほどの危機ではないインフルエンザの流行に対して「ロックダウン」を行い国民の経済活動を完全に停止してしまうと、その結果として国が滅びる危険性が生じることになる。国が滅びないまでも、多くの国民の生活が破綻してしまい、経済的な理由によって、多くの国民が塗炭の苦しみを味わうことになり、多くの人が自殺を余儀無くされるという事態に成りかねない。

 本当の危機でそうなるなら、まだ諦めも付くだろうが、大した危機でもないにも拘らず、そのような結果を招くことは許されることではない。「無知や誤解で多くの国民が死亡することになりました」では済まされない。

 ゆえに前回の記事では、保守であっても「緊急事態条項」の追加は条件反射的に喜べるものではないと書かせてもらった。これまでの常識では、「緊急事態条項」の創設を否定するのは、先にも述べた通り、国家破壊願望を抱いた左翼と決まっていたが、コロナ禍という未体験ゾーンの出来事が発生したことで、その常識も崩れ去った。

 逆に考えると、「緊急事態条項」の創設を望むのは保守派だけではなくなったということでもある。危機でもないものに「緊急事態条項」を適用し、国を破壊することができる危険性が生まれたということを知らねばならない。

 「緊急事態条項」は、「諸刃の剣」となる危険性があるものに変わってしまったのである。

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posted by 自由人 at 11:39 | Comment(0) | 社会問題
2021年05月04日

新型コロナウイルスの常識破壊【憲法改正の実現】


■「憲法改正の世論調査」で「賛成」が上回った理由

 74回目の「憲法記念日」ということで各メディアで行われた「憲法改正の世論調査」の結果は以下の通りだった。

 ○読売新聞 賛成56% 反対40%

 ○産経新聞 賛成52% 反対34%

 ○朝日新聞 賛成45% 反対44%

 ○毎日新聞 賛成48% 反対31%

 ○NHK  賛成33% 反対20%


 意外にも全てのメディアの結果が、「賛成」が「反対」を上回ったということで「ついに憲法の改正ができる」と騒ぎになっているようだ。

 この結果については素直に喜びたいとは思う。しかし、おそらく今回の世論調査の結果は、コロナ禍における「緊急事態条項」の改正(追加)が含まれており、「憲法9条」の改正を指しているものだけではないのではないかと思われる。
 政府が国民の意見を無視して強引にでもロックダウンができるような法律が必要だという意味での「賛成」が多分に含まれているのではないかと想像する。

■護憲派のジレンマが「憲法改正」を招く

 「憲法9条」を死守したいと思っている人(護憲派)というのは、基本的にリベラルな社会主義者が多いので、「緊急事態条項」には反対を示す傾向にあるのだが、同時にコロナを極度に恐れてロックダウンを望むような人も多いため、憲法の改正を望む方向に傾いたのではないだろうか。
 表向きには国家権力を否定しつつも、無意識的に国家権力に管理されることを望んでいるという矛盾した思想が顕在化してしまった格好だとも言える。

 護憲派とて、日本国憲法を一言一句変えたくないというわけではなく、「憲法9条」に無関係な部分については変えても構わないという本音が現れたのが、今回の世論調査の結果なのかもしれない。

 しかし、少しでも憲法を変えてしまうと、その勢いに乗って「憲法9条も変更してもいいのではないか」という世論が巻き起こるのを恐れていることも間違いのないところだろうと思う。

 今回のコロナ禍は、皮肉なことに憲法改正の先鞭を着ける切っ掛けになるかもしれない。コロナ禍に対する恐怖感が護憲派の心情にジレンマを生じさせたことで、これまで微動だにしなかった日本国憲法という化石化した聖典に風穴が空くことになるかもしれない。

 この好機を逃さずに憲法改正が実現することを期待したいところだが、保守派の中には「緊急事態条項」の新設は必要無いと思う人も多いと思われる(私もその1人)ので、保守派にとってもジレンマになるかもしれない。



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posted by 自由人 at 07:14 | Comment(0) | 社会問題
2021年04月04日

「新しい生活様式」の行き着く先はアバター生活


■人類未体験の新しい生活様式を目指す「ムーンショット」

 コロナ禍によって「新しい生活様式」という言葉が生まれた。

 この「新しい生活様式」とは、コロナと共存していく上で基本となる生活スタイルの変化を意味しており、三密を回避した生活に始まり、人と人との接触を極力避けるという意味が込められている。

 しかし、そういった生活はまだ入り口に過ぎず、政府は、もっと進んだ人類未体験の生活を目標としている。それが「ムーンショット目標」と呼ばれるもので、2050年までに、人が身体、脳、空間、時間の制約から解放された社会を実現すると唱われている。

 その新しい生活様式の1つは、「サイバネティック・アバター生活」と呼ばれており、以下の目標が定められている。

2030年までに、望む人は誰でも特定のタスクに対して、身体的能力、認知能力及び知覚能力を強化できる技術を開発し、社会通念を踏まえた新しい生活様式を提案する。

2050年までに、望む人は誰でも身体的能力、認知能力及び知覚能力をトップレベルまで拡張できる技術を開発し、社会通念を踏まえた新しい生活様式を普及させる。

引用サイト:内閣府ムーンショット目標1

■映画『サロゲート』のような社会は実現するのか?

 「ムーンショット」とは、その言葉が示す通り、人類の月面着陸に例えて「未来社会を展望し、困難な、あるいは莫大な費用がかかるが、実現すれば大きなインパクトをもたらす壮大な目標や挑戦を意味する言葉」の総称だが、日本での「ムーンショット目標」は奇しくもコロナ感染が取り沙汰された昨年の1月に決定された。

 人間がアバターを操作して仮想現実的な生活を行うなどと言えば、「妄想だ!」とか「都市伝説だ!」と批判されそうだが、実際に国(内閣府)が発表しているリアルな情報である。

 昔、人間がアバターを操作して生活する世界を描いた『サロゲート』という映画があったが、まさにあのような世界を目標としていることになる。

 まるで遠い未来を予想したSFのような話であり、そんなSF映画のような社会が、今後わずか30年程度で本当に実現できるのかは信じ難いというのが率直な感想だが、国がそういった社会を目標としていることは事実だ。

 キーワードとなるのは、「身体」「」「空間」「時間」からの解放となっているが、「身体」「空間」「時間」はまだ理解できるが、「脳」からの解放というのがよく解らない。
 自分の意のままに操ることのできるアバターロボットがあれば、「身体」「空間」「時間」からの解放は可能かもしれないが、「脳」からどうやって解放されるのだろうか?



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posted by 自由人 at 13:46 | Comment(0) | 社会問題
2021年03月30日

新型コロナウイルスの常識破壊【市民権を得た陰謀論】


■「コロナ騒ぎ」を否定し「コロナワクチン接種」を肯定する矛盾

 巷では、既に春の気配が感じられつつあるにも拘らず、「コロナの第4波が来た」という季節外れとも言えるようなことが囁かれている。確かに緊急事態宣言を解除した後に、マスコミが言うところの「感染者数」が増加傾向にあるので、そう言わざるを得ないのかもしれないが、どうも釈然としない。

 ホリエモンもマスコミが騒ぐ「(コロナ禍の)戦後最大の危機」に苦言を呈したということでニュースになっていたが、そのホリエモンも、なぜかワクチン接種には肯定的なようで、これまた釈然としない。

 コロナ騒ぎが行き過ぎだとして批判している人物が、毎年のインフルエンザ感染者数よりもはるかに少ないコロナに対してワクチンを打つべきだとするのは、矛盾しているように思える。

 「コロナは絶対的に危険なのでワクチンを打つべき」と言うなら筋が通るが、「コロナで騒ぎ過ぎだからワクチンを打つべき」では、明らかに二律背反しており筋が通らないのではないだろうか。

■「ワクチン接種」にまつわる陰謀論

 これまでの経緯に少し触れておくと、1月22日にWHO(世界保健機関)が「PCR検査のCt値を30台に下げるべき」というお達しを全世界に通達したことになっているが、日本の場合、そのお達しには従っておらず、今でもCt値を40以上に設定している。

 元々、Ct値が30台の台湾では、コロナ感染者はほとんどいないので、日本でもCt値を30台にすると、コロナ感染者数は台湾並みに下がるのではないかと思われる。

 しかし、Ct値を下げると感染者数が激減し、ワクチンが不要だという人が数多く出てくることになる。そうなると、世界中でコロナパニックを煽りに煽って、ワクチンが絶対に必要だということにしたい勢力には都合が悪くなってしまうのかもしれない。

 ここまで書いてしまうと「信じるか信じないかはあなた次第です」という、まるで絵に描いたかのような陰謀論になってしまうが、これが案外、外れていないと思えるところが恐ろしい。

■「本物の陰謀論」と「偽物の陰謀論」の見分け方

 陰謀論には「本物の陰謀論」と「偽物の陰謀論」がある。その見分け方は至ってシンプルで、マスコミが騒ぐか否かで大体の判断が付いてしまう。

 例えば、少し前に福井県議会議員の斉藤新緑氏が「コロナワクチンは●●兵器」「ワクチンを打てば5年以内に●ぬ」という陰謀論を広報紙に掲載して大きなニュースになっていた。しかし、そのニュースが伝えられたのは1日だけで、それ以降は箝口令が敷かれたかのようにピタッと騒ぎが収まり全く取り沙汰されなくなってしまった。
 なぜ、1日だけ報道したのか意図は不明だが、こういった報道がマスコミで為された意義は大きい。

 もし、斉藤氏の発言が全く根拠のないトンデモ論だとすれば、マスコミや野党は大々的にバッシングし続けて然るべきだが、なぜか何も言わなくなってしまった。

 斉藤氏は広報紙の中で「ディープステート」という言葉を使用していたので、マスコミは戦後の諸事情でその言葉をヘタに報道できないために黙るしかなくなったのだろうか?

■「インターネット情報は玉石混淆」は過去の話になるのか?

 実は戦前の日本のマスコミは、「ディープステート」批判を普通に行っていた。「ディープステート」という言葉をそのまま使用していたわけではないが、アメリカの影の政府批判を堂々と行っていたのが日本のマスコミだった。

 そう考えると、戦後と比べて戦前は、言論の自由が現代以上に許されており、マスコミ人が如何に自由で優秀だったかがよく分かる。そんなマスコミ人が書いて作った新聞なら、お金を支払ってでも読む価値が有ったのだろうけれど、現代では読む価値が暴落してしまい、私自身も遅まきながら新聞を取るのを止めた。

 SNSやYouTube等のインターネット情報は玉石混淆だとも言われるが、最近では、「玉」の部分にどんどん検閲が入り、「石」のような情報だけが重宝されるという倒錯した社会に変化しつつある。

 いつの間にか世界的にネット情報が検閲の対象となってしまったので、将来的には本物の情報は検閲の緩い書物を通してしか仕入れることができなくなっていくのかもしれない。

 そんな先祖返りしたかのような暗黒的な未来社会の到来は御免被りたいものだ。

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posted by 自由人 at 23:15 | Comment(0) | 社会問題
2021年03月11日

小泉進次郎環境相が述べた「ライフスタイルの変化」とは?


■日本人に「ライフスタイルの変化」は必要なのか?

 政府が、プラスチック製品の削減を義務づける『プラスチック資源循環促進法案』を閣議決定したことで、小泉進次郎環境相は以下のように意気込みを伝えた。

 「コンビニでスプーンなどが有料化されれば、自分でスプーンを持ち歩く人が増えていく。こうしたことで(日本人の)ライフスタイルを変化させていきたい。

 昨年のレジ袋に始まり、今度はプラスチック製のスプーン、フォーク、ストローと、どんどん対象となる物が増えていく兆しが感じられるが、この調子でいくと終いには弁当容器や菓子パン袋も禁止(または有料)となり、マイ弁当箱のような物まで持ち歩く必要が出てくるのかもしれない。

 無料だった物を有料にすることで経済活動を活性化するという目的で行われる政策ならまだしも、誰も反論できない「環境保護」という大義名分を抱えての政策だけに始末が悪い。

 今回の小泉環境相のライフスタイル発言には、「大きなお世話だ!」という批判の声が殺到したそうだが、残念ながら、批判の矛先が間違っているのではないかと思う。
 プラスチック製品の廃止運動は、日本が言い出したものではなく、全世界的な努力目標となっており、その取り決めを行った勢力に対して文句を言わなければ何の解決にもならないとも言える。

■「世界政府の御用聞き」と化した政治家達

 おそらく、小泉進次郎氏は個人の思想や思い付きでこんな発言をしたのではなく、基本的には世界の趨勢に従っているだけだろうと思われる。
 現代の日本の政治家は国際的に他国で決められた目標に従うことだけが仕事となっており、日本独自のライフスタイルを追求しようなどという意気込みは感じられない。

 本来の政治家の仕事である国民生活の利便性や幸福感を追求するのではなく、国際的な取り決めに国民を従わせることだけが仕事となっており、その目標を達成することだけが自己目的化しているように見える。これでは、「日本の政治家」と言うよりも「世界政府の御用聞き」と言った方がピッタリする。

 一応、フォローもしておくと、当の政治家達も好き好んでそんな姿勢を貫いているわけではないのだろうけれど、国民が国際社会について無知なせいで、世界政府の言うことに素直に従わざるを得なくなる。しかし、その結果、政治家が国民生活を不便にして国民を不幸にしているのであれば、如何ともし難いものがある。

 「世界政府」とは、Wikipediaから引用すると、「国家の上部組織として世界全体を統治する構想上の政府」となっている。漫画のワンピースにも「世界政府」という言葉が出てくるが、現代社会では「新世界秩序」と呼ばれているものがこれに該当する。

■「新世界秩序」に踊らされるピエロ達

 近未来SF小説家として有名なH・G・ウェルズは、生前の著書『The New World Order(新世界秩序)』の中で、主権国家の根絶と少数のエリート達による世界統一政府の必要性を述べたとされる。

 現代風に言うなら、「新世界秩序」とは「グローバリズム」そのものであり、現在の世界の国々は、この「グローバリズム」に従うべきか、それとも従わないべきかの選択を目の前に突き付けられている格好となっている。

 「そんなエリート達の偽善に付き合っていられるか!」という勇ましい国や経営者もいれば、従順に従うだけという日本のような国もある。

 かつての日本は、「植民地主義」という名のグローバリズムに対して、ただ1国、歯向かった気骨のある国だったが、敗戦後の思想統制で、そういった気概は完全に骨抜きにされてしまい、今では、グローバリズムを無条件に礼賛するという気骨のない国に堕してしまった。

 日本人のライフスタイルよりも、国際人としてのライフスタイルが優先される社会。
 その社会の目的が、石油から製造されるプラスチック製品を減少させることで、電気自動車を推進するという、およそ環境問題とは無縁の利権にあるのだとすれば、我々は、偽善目標に踊らされるただのピエロということになってしまう。

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posted by 自由人 at 20:01 | Comment(0) | 社会問題
2021年03月06日

無理筋な「イラネッチケー」裁判判決


■「イラネッチケー」<「ブースター」

 NHK放送だけ映らないようにする「イラネッチケー」を付けたテレビを買った人が、NHKに対して「受信契約を結ぶ義務がない」という裁判を起こしていた。

 一審が行われた地裁では、「NHK放送を受信できない以上、受信契約を締結する義務はない」という判決が出されていたが、二審の東京高裁では、一審の判決を覆して以下のような判決が出た。

 「たとえNHK放送が映らなくても、電波を増幅させるブースターを使用すればNHK放送を視聴できるので契約義務が生じる

 要は、イラネッチケーを付けた上で、ブースター(増幅器)を取り付ければ視聴が可能となるので受信料を支払う義務があるということらしい。

 こういう誰が考えても無理筋だと思える裁判結果を目の当たりにすると、結局、裁判自体が茶番でしかないのかもしれないな…と疑いたくもなる。

■NHKだけが別枠の「公共料金」

 「公共」と名の付くものは、別にNHKに限られたものではなく、誰もが生活で利用している電気・ガス・水道なども公共料金として扱われている。ただ、NHKと大きく違うところは、電気・ガス・水道などの公共料金は、使用料の支払いが滞るとサービスを止められてしまう。

 よくテレビドラマ等で、光熱費が支払えない人の家に料金徴収員が押し掛けて、こう言われるシーンがある。

 「お金を支払ってもらえなければサービスを止めますよ

 その後、本当に利用料金を支払わなければ、電気もガスも水道も情け容赦なく止められてしまう。

 ところが、NHKの場合はそうはなっていない。NHK放送を視聴して料金を支払わないのであれば、他の公共料金と同じように、こう言えばいいのではないのだろうか。

 「お金を支払ってもらえなければ放送を止めますよ

 これなら誰も文句を言えない。「ただめし」ならぬ「ただテレビ」を観て料金を支払わないのは悪いことだと誰もが認識しているので、裁判で「お金を支払うのは嫌だ」とは言えない。

■「公共」だから仕方がないのか?

 あるいは、公共の薬局(置き薬)のようなものがあったとすれば、置き薬を使用して料金を支払わないのは犯罪になる。置き薬業者がサービス利用客の自宅に伺って、置き薬箱の中身を確認することは仕事の一環であり、もし、置き薬箱を隠して出さない客がいたとすれば、泥棒になってしまう。

 しかし、NHKの場合は、なぜか業者と消費者の立場が真逆になっており、公共放送を観た人に対して視聴料金を請求するのではなく、観たか観ていないかを調べることができないため、観ていない人からも料金を徴収するという前近代的なシステムとなっている。
 観たか観ていないかに関係なく、支払うお金を持っている人から徴収するという悪平等なシステムになっている。

 尤も、観たか観ていないかを調べることは技術的には可能なのだが、それを敢えてやらないことで有無を言わさずに視聴料を徴収するという出鱈目な制度となっている。

 「公共だから、サービスを利用していなくても料金を支払うのは当然です」と言われれば、反射的に“仕方がない”と思いがちだが、先に述べた通り、電気・ガス・水道などの公共料金は、「公共」だからという理由で、貧しい人は無料で利用してもいいという平等なシステムになっているわけではなく、サービスを利用した者だけが厳しく料金を請求されるという公平なシステムになっている。

 同じ「公共」でも、どうしてここまで扱いが違うのだろうか?

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posted by 自由人 at 16:57 | Comment(1) | 社会問題
2021年02月27日

「SDGsな未来へ」が意味するもの


■「SDGs」は国際版「十七条憲法」?

 最近よく「SDGsな未来へ」という言葉を聞くようになった。確か、聞き始めたのは数年前だったと思うが、昨年あたりから頻繁に耳にするようになり、マスコミを通じて啓蒙活動が行われているようだ。

 この「SDGs」とは何かというと、持続可能な開発目標(Sustainable Development Goals)の略称で、国連のサミットで2015年に定められたとされている。2000年に定められた「MDGs(Millennium Development Goals)の目標が達成されたので、新しく刷新されたものであるらしい。
 ただ、先の「MDGs」が発展途上国を対象としたものであるのに対して「SDGs」は、全世界を対象としたものであるという違いがある。

 「SDGs」には以下の17の目標が定められている。

 (1)貧困をなくそう
 (2)飢餓をゼロに
 (3)すべての人に健康と福祉を
 (4)質の高い教育をみんなに
 (5)ジェンダー平等の実現を
 (6)安全な水とトイレを世界中に
 (7)エネルギーをみんなに そしてクリーンに
 (8)働きがいも経済成長も
 (9)産業と技術革新をつくろう
 (10)人や国の不平等をなくそう
 (11)住み続けられるまちづくり
 (12)つくる責任 つかう責任
 (13)気候変動に具体的な対策を
 (14)海の豊かさを守ろう
 (15)陸の豊かさも守ろう
 (16)平和と公正をすべての人に
 (17)パートナーシップで目標を達成しよう

 こうやって眺めてみると、まるで、世の中のことをあまり知らない小・中学生の学級会議で決められたかのような内容となっている。ある意味、国際版の「十七条憲法」といったところだろうか。

■SDGsな「レジ袋ゼロ運動」

 (7)や(13)は、電気自動車の推進、(11)や(14)が、レジ袋ゼロ運動に関係しているのであれば、全ては「SDGs」が大元になっていることになる。

 悪評の高かった「レジ袋ゼロ運動」は、当初、「不便だ」というブーイングの嵐だったが、今や当たり前の光景となっており、誰もが不満を漏らさずに励行しているように見える。
 私個人は今でも不便に感じているが、ごく短期間で世間の常識が塗り替えられてしまった感がある。

 可哀想なウミガメの映像を見たことで、“ビニールは悪”と思い込み、マイバッグを持ち歩いて買い物をすることを決意した人々。しかし、買い物を終えたマイバッグの中を覗いてみると、その中はビニールに包まれた商品だらけという矛盾には気が付かない。

 「ビニールは悪」といっても、弁当もパンもおにぎりもビニールに包まれており、結局、ビニールはゼロにはならなかった。生まれた結果は、ビニール使用量を減少させてビニール製造会社を疲弊させ、無料だったビニール袋が有料になっただけではないのだろうか。

 ウミガメさんが救われたと思っているような人がいるのかもしれないが、ビニール使用量を減少させただけでは救われない。ウミガメさんを救うためには、あなた自身が、ビニールゴミをポイ捨てしないと決意しなければならない。原因はビニールにあるのではなく、あなた自身の心の持ちようにある。環境汚染の原因を履き違えてはいけない。

 「レジ袋ゼロ運動」だけでなく、地球温暖化を避けるという名目で、既に「温室効果ガスゼロ運動」も始まっている。
 しかし、現在のところ、地球温暖化説は仮説であり、本当に二酸化炭素を減少させると地球温暖化を避けれるのかどうかも定かではなく、長期的に観れば、逆に地球は寒冷化しているという説も根強くある。
 そんな状態で、闇雲に二酸化炭素の削減に突っ走ってしまうと、ガソリンに関わる仕事をしている人々の多くが職を失い、その挙げ句に、結局、地球は寒冷化してしまったでは、誰も救われないことになる。

 「SDGsな未来へ」が意味する未来とは、多くの人々にとっては有り難迷惑な「不便な未来」でしかないのかもしれない。

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posted by 自由人 at 10:28 | Comment(1) | 社会問題
2021年02月07日

「オヤジギャグ」で総バッシングされる社会の是非


■行き過ぎた森喜朗バッシング

 東京オリンピック組織委員会の会長である森 喜朗氏へのバッシングが猖獗を極めている。まるで、毎度の麻生氏の失言に対するバッシングであるかのように。

 その理由というのが、「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」という女性差別発言を行ったということになっているらしいが、さすがにこれは少々、騒ぎ過ぎではないかと思われる。

 森氏は東京オリンピック組織委員会の会長である前に、戦前生まれの80代の高齢者であり人生の大半を昭和で過ごしたバリバリの昭和世代であるので、こういった発言をすることは特に珍しいことでもないと思う。ごく普通の一般の高齢者の口からよく出てくるような言葉だとも言える。

 例えば、昔からよく「女性は執念深い」と言われることがある。もちろん、世の中には男性よりもさばさば(=あっさり)した女性もおり、物事を即断即決で決める女性も多いので、一概に「女性は執念深い」「女性は話が長い」とは言えず、女性よりも執念深く話の長い男性も大勢いる。

 だから、一概に「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」というのは間違っている。逆に「男性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」という場合も有り得るだろうし、「男性がたくさん入っている会社の会議は時間がかかる」という場合は多々ある。

■オヤジギャグも言えない窮屈な社会

 しかし、たったそれだけのことで、ここまでバッシングされるというのは、観ていて気分の良いものではなく、気の毒にも思えてしまう。

 森氏が怒り顔で、特定の女性に対して「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる!」と叱責したというならともかく、おそらく森氏は昔からの真偽不明の一般論として口を滑らせただけだろうと思う。

 例えば、笑顔で「いやー、女性がたくさん入っている理事会は時間がかかりますからね〜」とオヤジギャグを飛ばしたと考えれば、特に問題になるような発言とは思えない。

 オヤジギャグを言うだけで差別発言と解釈され、総バッシングされる社会。多くの国民は、そんな窮屈な社会を望んでいるのだろうか?

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posted by 自由人 at 16:35 | Comment(0) | 社会問題