2019年07月17日

ハリウッド化する『007』【ボンドウーマンの是非】


■女性のヒーロー「ボンドウーマン」

 イアン・フレミング原作のイギリスの国民的スパイ映画『007』シリーズは、今や誰もが知る世界に名だたるエンタメ映画として君臨している。
 最近では同じくイギリスの過激なスパイ映画『キングスマン』やトム・クルーズ主演のスパイ映画『M:I』シリーズに押され気味で少し人気に翳りが見えていたが、そんな中、「女性の007が誕生する」という衝撃的なニュースが伝えられた。


 衝撃的と言っても、次世代ボンドが女性になるというわけではなくて、おそらくは休暇中のボンドに変わって一時的に「007」の称号(殺しのライセンス)をQから与えられるというストーリーなのだろうと思う。
 しかしそれでも、個人的にはこのニュースは、あまり好意的には受け取っておらず、正直なところ、「またか…」と呟いてしまった。

 最近の映画『MIB』の主役も男性(ウィル・スミス)から女性(テッサ・トンプソン)に変わっていたが、一時的だとはいえ『007』の役を女性が演じるというのは随分と大きな賭けだなと思える。

 なんでも「ボンドガール」という呼び方は禁止になり、今作では「ワンダーウーマン」ならぬ「ボンドウーマン」と呼ばれるらしい。まるで、「女性が主役の時代の到来」と言わんばかりの触れ込みだが、男のロマンよりも女のロマンを前面に出して興行的に成功するのかは少々疑問でもある。


 数年前にもアメリカの人気テレビドラマ『24』の主人公が白人から黒人にバトンタッチしたことがあったが、残念ながらシーズン1で打ち切りとなってしまった。内容自体はそれなりに面白いドラマだったが、やはり本家本元には敵わずシリーズ化には至らなかった。


■黒人の時代を迎えたハリウッド

 当ブログでも何度かハリウッドのリベラル化について述べてきたが、ここに至って、イギリスにまで飛び火したエンタメ映画の女性優位化は、大きな物議を醸し出しそうだ。

 少し前にも『クリード2』という映画を観た。『ロッキー』の後釜的な作品として知られている映画でもあるが、かつてのロッキーの宿敵アポロ・クリードの息子が主人公のボクシング映画だ。
 内容的にはベタなスポ根ものだったが、この作品のラストでロッキーがクリードに語った次の台詞が印象的だった。


 「これからはお前の時代だ

 私には、この台詞の裏には、もう1つの違う意味が込められているように聞こえた。

 それは、「これからは黒人の時代だ

 そう言っていたスタローンの瞳はどこか哀しげだった。

 かつて一世を風靡した『ロッキー』というキャラクターは、白人が黒人と闘い、1度は敗れるものの、愛の力によって最後には勝つという感動作だった。


■『ロッキー』が作れなくなったハリウッド

 しかし、ここで考えてみてほしい。
 それは、『ロッキー』という映画が、現代のハリウッドで製作できるだろうか?という素朴な疑問である。あるいは、ハリウッドでなくても、白人が黒人をやっつけるというような映画が昔のように評価されるだろうか?という疑問である。

 おそらく、現代のハリウッドでは『ロッキー』のような映画は製作できないと思う。製作できたとしても大々的なコマーシャルは行われないだろうし、どのような感動作であってもアカデミー賞にノミネートされることはないと思う。
 そんな映画が公開されると、「黒人差別だ!」というバッシングが巻き起こる危険性が有るため、誰もそんなリスクを背負って映画を製作しないはずだ。

 悲しいかな、それが現在の「真っ赤なハリウッド」の姿でもある。ハリウッドの「レッドカーペット」は今や、思想的な意味合いでの呼び名と化しており、その赤いリベラル思想に反する者は踏むことが難しくなっている。

 現代のハリウッドはいつの間にか、アメリカンドリームの象徴とも言える『ロッキー』が製作できない国になってしまった。これも現代のアメリカが抱える大きな病の1つだと言える。

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posted by 自由人 at 20:27 | Comment(0) | 社会問題
2019年06月14日

生徒を叱れない環境が「いじめ」を助長する


■「いじめ」を軽視している教育委員会

 大阪府吹田市の小学校で女児が複数の男児からいじめられていた問題の詳細が捜査関係者への取材で明らかになったらしい。
【参考サイト】吹田いじめ 加害の男児5人を府警が児相に通告

 2015年秋頃
   いじめが始まった

 2016年3月
   いじめが原因で足首を骨折

 2017年4月
   両親が教育委員会に調査を依頼

 2017年6月
   両親が大阪府警に被害届を提出

 2017年7月
   大阪府警がいじめがあったと児童相談所に通告
   児童相談所が加害者の少年5人と面談

 2017年8月
   両親が教育委員会に相談してから4ヶ月間放置した後、第三者委員会を設置

 2017年10月
   ようやく、いじめ調査を開始


 こうやって報道されている経緯を時系列で並べてみると、はっきりと判明するのが、相変わらずの教育委員会の怠慢ぶりだ。両親が相談後、半年も経ってから調査が行われるという有り様。これでは、いじめが有ったことを隠すことが教育委員会の役割だと疑われても仕方がないと言える。

■大人が鬼になって教えるべき「他人の痛み」

 しかし、まだ物心が付かない(物事の善し悪しが解らない)年齢だとはいえ、小学生の男児が5人で1人の女児をいじめるとは末恐ろしい…と言うか、おそらく、昆虫や動物を虐めているのと同じような感覚だったのだろうと推察するが、こういう生徒は彼らが大人になってから後悔するのを防ぐためにも大人がしっかりと監視しなければいけない。

 やって良いことと悪いことの違いは、大人が子どもに教えるしか方法がない。他人を傷付けることは悪いことだと言葉だけで解らないのであれば、残念ながら身体で教えるしかない。殴られれば痛いし、反抗できないことは悲しいということを大人が鬼になって教えなければいけない場合がある。

 しかし、現代の小学校は、体罰が禁止されているので、ビンタやゲンコツでもしようものなら、逆に教師が悪者として訴えられるようになっている。
 よく映画などで、刑務所の囚人通しが殴り合いの喧嘩になると、決まって、看守達が喧嘩を止めに入る。当然、止める時には警棒などを使用した暴力が伴う。ところが、現在の学校はこれができない。看守(教師)が囚人(生徒)達の喧嘩を仲裁せずに黙って観ているだけでは、怪我人だけでなく死人が出る危険性もある。

 こんな教育現場では「どうぞ好き勝手にいじめを行ってください」と言っているようなものかもしれない。まともに叱ることができずに、どうやって悪ガキを更正させることができるというのだろうか?
 「聖職者である教師は暴力を振るうことはできない」と言うのであれば、刑務所同様に、看守らしきものを常駐させるべきだろう。

■歪んだ自由が、未来の似非リベラルを作り出す

 昔から、未成年者は悪事を働いても少年法で過剰に守られていることが問題だとされることがあった。しかし現在では、そこにさらに輪をかけて、法律を悪用することが当然というような教育現場となっている。

 生徒に対する暴力は許さないということは理解できるのだが、悪いことをした生徒に対して“叱る”という意味での暴力も一切許さないとなると、生徒はその制度を悪用して、何でもやりたい放題の環境が出来上がることになる。そういう環境に慣れてしまった生徒は、「放埒」を「自由」だと思い込んでしまうようになり、学校は未来の似非リベラルを身籠ることになる。

 目の前で悪が為されていても、口で注意するだけ。口で言って聞かない生徒にはお手上げとなる。
 クビになることを恐れる教師は口を噤み、いつしか、生徒の悪事を見て見ぬ振りをすることが正しいという錯覚を覚えるようになっていく。これではまさに、いじめられている生徒にとっては地獄であり、教師にとっても悪夢以外の何ものでもない。

 “悪ガキはいない”という前提で組み立てられた理想論としての「体罰禁止論」が、皮肉なことに、いじめを拡大再生産する手伝いをしている。そういう負の側面にも目を向ける必要がある。

  
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posted by 自由人 at 23:27 | Comment(0) | 社会問題
2019年06月05日

「死ね」という言葉が不幸を生む


■2つの事件は偶然に起こったのか?

 「川崎市殺傷事件」を起こした犯人が事件後に自殺したことに対して「死ぬなら(一人で死ね)ばいい」と言う人が大勢いたとして、その冷酷な言葉が問題となった。

 ただ、この場合の「死ぬなら(一人で死ね)ばいい」というのは、「自殺を考えている人は(一人で死ね)ばいい」という意味ではなくて、「他人を巻き添えにするぐらいなら(一人で死ね)ばいい」というニュアンスだったことは言うまでもない。あくまでも「他人を巻き添えにする」という行為が伴った場合の話だった。

 「川崎市殺傷事件」の4日後、間髪入れずに、元農林水産省の事務次官が、ひきこもり(引き蘢り)の息子を殺害したというショッキングな事件が報道された。
 この事件では、ひきこもりの息子が殺された事件ということで、なぜか「ひきこもりは犯罪予備軍」というレッテル貼りのような言葉が喧伝されるようになった。

 しかし、これも「ひきこもりは(全員)犯罪予備軍」という意味ではなくて、たまたま、親の脛を齧って生活していたひきこもりのドラ息子が犯罪を起こす危険性があったというだけの話だった。

■シンクロニシティのような2つの事件

 「ひきこもり」とは、学校にも会社にも行かず、半年間以上、家族以外の人間と交流がない人のことを指すらしいが、一口に「ひきこもり」と言っても、様々なタイプがいる。
 何か悩み事があってひきこもりになっているタイプと、親が金持ちなので、働かなくても親が面倒をみてくれるタイプのひきこもりもいる。親の年金をあてにしたひきこもりもいれば、早期リタイヤした億万長者のひきこもりもいる。“受動的なひきこもり”と“能動的なひきこもり”は全く違う。

 息子をメッタ刺しにして殺害した元官僚の父親は「川崎の事件が頭をよぎり、周囲に迷惑がかかると思った」と供述しているという。
 その供述が本当のことなのかどうかは判らないので、現時点では鵜呑みにすることはできない。しかし、同時期に発生した今回の2つの殺人事件は、まるで、何か因果でもあるのではないか?と思わせるシンクロニシティのような事件だった。

 「死ぬなら(一人で死ね)ばいい」という言葉の曲解が、「ひきこもりは犯罪予備軍」という誤った認識を生んだとも言える。「他人を巻き添えにするぐらいなら(一人で死ね)ばいい」とするために、「ひきこもり(のドラ息子)は犯罪予備軍」として殺害されたのだとすれば、実に皮肉な話だ。

 この2つの事件を巡って、マスコミでもネットでも行き過ぎた理想論が飛び交っているが、「死ね」というような言葉の使用が、そもそもの不幸の始まりだったのかもしれない。こういう誤解を生んでしまうようなマイナス言葉は、なるべく使わない方がよいのかもしれない。


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posted by 自由人 at 22:37 | Comment(0) | 社会問題
2019年05月29日

「川崎児童殺傷事件」における自殺同情論の是非


■殺人者の自殺同情論は成立するか?

 神奈川県川崎市でスクールバスを待っていた小学生達が、包丁を持った51歳の男に次々と襲われ19人が死傷するという凄惨な事件【川崎児童殺傷事件】が発生した。

 現段階では、犯人の名前が判っている程度で、どのような事情で凶行に及んだのかは不明だが、「計画的な自殺だった」という意見も出ているようだ。

 犯人がどんな悩みを抱えていたのか、自殺を考えるに至った動機や背景も謎のままだが、世間では犯人が自殺したことが殊更注目され、中には、自殺した人間を責めるのは控えた方が良いというような意見も出ているようだ。

 この事件の犯人が結果的に自殺したことは間違いのない事実だが、遺書的な物が発見されていないことを考慮すれば、無関係の人々を殺した後で自殺することを計画していたのかどうかまでは判らない。多くの人を殺傷してしまったので、破れかぶれになって自殺に及んだということも考えられる。
 もし、そうであった場合、自殺同情論は成り立たなくなる。

 1、自殺を考えた上での無差別殺傷事件

 2、無差別殺傷事件を起こした後に思い立った自殺

 この2つが違うことは誰にでも解ると思う。

■「自殺」と「殺害」の因果関係の有無

 話を分かり易くするために、喩え話で考えてみよう。例えば、いじめを苦にした自殺というものをケース別に考えてみると、

 (A)いじめを苦にして自殺した いじめられっこ

 (B)いじめを苦にして、いじめっこを殺害した後に自殺した いじめられっこ

 (C)いじめを苦にして、無関係の人間を殺害した後に自殺した いじめられっこ

 この3つのケースの場合、Aの場合は、同情するしかないと思う。

 Bの場合も、罪は犯してはいるが同情したくなる。

 では、Cはどうだろうか?

 Cの場合、いじめられていたことに同情心は抱いても、いじめとは全く無関係の教師や生徒を八つ当たりで殺害したのであれば、同情することはできないと思う。この場合、同情するべきは、何の関係も無いのに殺された人々の方ではないだろうか?

 今回の事件が(A)〜(C)のどれに該当するのかと言えば、もちろん(C)である。
 自殺に及んだ原因と、殺害に及んだ結果に因果関係が無い場合は、残念ながら、自殺同情論は成り立たないと思う。

■包丁を持った知らない人が襲いかかってくれば、どうするか?

 今回の事件を起こした犯人に、どのような自殺をする原因があったにせよ、その原因と全く無関係の人々を殺傷したことに関しては全く同情の余地が無い。

 このことは、自分自身が被害者になった場合を想定すれば、明白だと思う。
 自分自身が突然、全く面識もない人間に襲いかかられ、包丁で刺されて重傷を負った場合、あなたは、その犯人に同情することができるだろうか? その犯人が悩みを抱えて自殺を考えていただろうことを慮り、「犯人を責めないでください」と同情することができるだろうか? もし「できる」と言うならご立派だが、そんな人がどれだけいるのだろうか?

 包丁を持った知らない人物が襲いかかってくれば、誰もが恐怖感を抱き逃げるのではないだろうか? 逃げずに受け止めるというなら、これまたご立派だが、そんな人がいるとは到底思えない。

 いじめっこに対して、いじめられっこが包丁を持って襲いかかってくれば、その原因が自分自身にあるだろうことをいじめっこも察するだろうけれど、全く知らない人物が襲いかかってくれば、いかに性悪ないじめっこでも退散するだろう。全く関係のない人であれば尚更だ。

 殺人者に対する同情というものは、その犯行の原因と結果が理解できてこそ成立するものであり、その殺人者が自殺したことによって結果的に生じるものではない。
 いかなる事情があろうとも、全く無関係の人達を殺傷した罪は許されることではない。
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posted by 自由人 at 21:55 | Comment(0) | 社会問題
2019年05月23日

現代の「言葉狩り」は中世の「魔女狩り」


■「魔女狩り」から「言葉狩り」へ

 12世紀から17世紀にかけて全盛を極めた「魔女狩り」は、奇しくも地動説を唱えたガリレオの登場によって下火になっていった。
 当時は天動説というものが世の常識となっていたため、「地球が動いている」というような言説は、文字通り、天地がひっくり返った妄説とされ、ガリレオは異端審問により社会的に抹殺された。

 現代では、流石に「魔女狩り」というものは無くなったものの、人々の無知に付け込み、「魔女狩り」を模したかのようなことが未だに行われているかに見える。

 現代における「魔女狩り」は「言葉狩り」と呼ばれている。現代の日本でも、政治家が話した些細な言葉を「失言」だとして針小棒大に報道・追及し、失言者を社会的に抹殺することが正しいことであるかのような空気が社会に充満しつつある。

 こんなことは、ほんの10年、20年前には無かったことだと思われるが、この社会の変化を本当に良いことだと認めることは非常に危険なことだと思われる。

 数百年後の人々は、我々現代人の「言葉狩り」を観て、どう思うだろうか? 
 我々現代人が、かつての「魔女狩り」というものを忌み嫌うのと同様、現代の「言葉狩り」を忌み嫌うようになるのではないかと思う。
 ほんの些細な発言を、よく吟味することなく、闇雲に否定しまくり、失言者の社会的生命を抹殺することを良しとする狂気の集団ヒステリー社会が21世紀初頭に確かにあったことを嘲笑う時がくるのかもしれない。

■21世紀に開いたパンドラの箱

 いつの時代でも、「魔女狩り」の空気に逆らうことなく、ただ、その場の空気に踊らされるだけの人がいる。彼らには、自らを客観視できないという共通点がある。今現在、目の前で行われていることを歴史的視座(過去と未来の視点)から俯瞰できないという共通点がある。

 一方で、いつの時代でも「魔女狩り」の危険性を認識できる人も大勢いる。しかし、個人が情報を発信することができなかった時代には、「魔女狩り」を主導する側の声だけが大きく、個人の声は掻き消され、誰にも届かなかった。

 21世紀、情報のオープン化によって巻き起こった「言葉狩り」の猛威は、皮肉にも、同じ理由によって、下火となっていくのかもしれない。
 現在は、その端境期にあるがゆえに、あらゆる禍いが同時多発的に顕在化しているとも考えられる。

 21世紀に開いたパンドラの箱から飛び出した「言葉狩り」の猛威が、なるべく早い時期に収まることを願わずにはいられない。





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posted by 自由人 at 22:45 | Comment(0) | 社会問題
2019年05月10日

被害者をセレブとして扱うパパラッチの罪


■矢面に立たされる被害者(保育園)

 先日、琵琶湖畔の丁字路交差点で車の接触事故があった。これだけならよくある交通事故としてほとんど報道もされなかっただろうけれど、運悪く、接触した車が歩道を散歩していた保育園児達の列に突っ込み、多数の園児が交通事故の巻き添えになったことで、大々的な報道がなされた。

 最近は、高齢者による車の暴走事故が多発しているので、今回の事故も事故発覚当初は、また高齢者による暴走事故かと思われた。しかし、その後、事故を起こしたのは、62歳と52歳の女性だったということが判明した。

 ところが、ニュース番組では、保育園側がマスコミ報道の矢面に立たされ、あまりのショックに泣き崩れる保育園長の姿がお茶の間に映し出されていた。
 ニュースの締めくくりでは「保育園側は明日の散歩を控えるようにする」というようなナレーションが入り、まるで、交通事故が発生する可能性のある道路を散歩していた“保育園側”に問題が有るかのような報道だった。

■被害者である保育園側に保護責任は無い

 これは不運な事故としか言い様がないが、誰が悪いのかと言えば、おそらくは誰もが、右折しようとした車を運転していたドライバーだと思うだろう。実際、事故を起こした当の本人も「右折時に前方をあまり見ていなかった」というようなことを供述しているらしい。

 右折しようとしたのは52歳の女性の方だったので、まさか高齢を理由とした対策案を提示するわけにもいかないため、別の対処法が検討されるのだろうと思われる。しかし、日本国中にガードレールを作ればいいというものではないし、車の通行する道路を散歩してはいけないというのも無理がある。

 今回の事故の場合、どう考えても注意しなければならないのは、車を運転しているドライバーの方であり、被害者である保育園側は、注意のしようがないし、注意していたとしても事故に巻き込まれないという保証もない。非が有るとすれば、殺傷凶器にも成り得る自動車に対する認識が少し甘かったという位のことだろう。
 「散歩しなければ交通事故に巻き込まれずに済んだ」などというのは、場当たり的な結果論でしかなく、何の改善策にも繋がらない。
 保育園側は園児達と同様、あくまでも被害者であって、子供を預かっていたから保護責任が有ると言うのでは、筋違いである。

 滋賀県大津市と言えば、何年か前に中学生の「いじめ自殺問題」で騒ぎになった所でもあるが、いじめによる自殺報道でも、毎度、責任を追及されるのは加害者であるいじめっ子ではなく、生徒を預かる学校の校長ということになっている。
 これと同じ理屈(保護責任)で保育園の園長が責められたのだとすれば、明らかに不自然だと言える。

■他人の不幸を見て喜ぶ社会からの脱皮を

 交通事故を起こした女性も、故意に交通事故を起こしたわけではないだろうから、あからさまに加害者として責め立てるのは問題かもしれないが、少なくとも、保育園のスタッフよりも責任が重いことだけは間違いない。

 しかし、今回のような事故は、スマホを見ながら運転しているような人であれば、誰もが起こす可能性のある事故でもある。この悲惨な交通事故から反面教師として我々が学ばなければならないことは、よそ見をせずに真摯に車を運転することを自らに戒めることだろう。
 「罪を憎んで人を憎まず」、単純なようでも、それが最も有効な交通事故回避策だと思う。

 マスコミは、視聴率を稼げる構図であれば、凄惨な事故現場を映そうが、悲しみで途方に暮れている被害者の家族を映そうが、何の責任も無いと言わんばかりで、被害者をセレブとして扱うパパラッチのような姿勢には批判も噴出しているようだ。
 しかしながら、それは“他人の不幸を見て喜ぶ”という民度の低さがそもそもの原因とも言えるので、行き過ぎた無意味な報道には、良識ある国民が「ノー」を突き付けていかなければ、いつまで経ってもこの状況は変わらない。



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posted by 自由人 at 20:34 | Comment(0) | 社会問題
2019年05月04日

高齢者の運転免許は取り上げるべきか?


■超高齢者による自動車運転の是非

 日本では人命に関わる危険性が有るものについては、その問題がクローズアップされる度に、法律が改正されてきたという経緯がある。

 その昔、日本ではノーヘル(メット)でバイクの運転ができた。

 しかし、ノーヘルによる交通事故の死亡者が多いとのことで、ヘルメットの着用が義務付けられた。→これは良い。

 その昔、日本ではお酒を飲んでも車の運転ができた(正確に言うと、高額な罰金は徴収されなかった)。

 しかし、飲酒運転による交通事故で死傷する被害者が多いとのことで、飲酒運転には高額な罰金が課されるようになった。→これも良い。

 その昔、日本では痴呆症の老人でも車の運転ができた。

 しかし、痴呆老人による交通事故が多いとのことで、高齢者の痴呆具合を調べるテストが義務付けられた。→これもまだ良い。

 現在、日本では超高齢になっても自動車の運転ができる。

 しかし、超高齢者による暴走事故が発生したので、ある年齢に達した高齢者から運転免許を取り上げるかどうかが検討されつつある。→?

■「都会の道」と「田舎の道」は違う

 現在、痴呆症の全頭検査が行われているにも拘らず、超高齢者の交通事故が発生してしまった。そのため、痴呆症のチェックだけでは足らないということで、ある一定の年齢に達した高齢者の運転は禁ずるという法律ができるかどうかの瀬戸際に立っている。

 しかし、これは流石に行き過ぎだと思う。実際、現在でも80歳を超えても元気に運転している人は大勢いる。特に田舎に住んでいる人などは、車が無ければ生活できないという人も多いので、そういう老人からも運転免許を取り上げるというのは無理がある。

 通行者も多く信号だらけの都会と違って、すれ違う通行者もほとんどおらず、信号もほとんどない田舎道は、仮に運転する車が暴走したとしても誰にも迷惑がかからない。死傷者が出るとすれば、運転している自分自身だけだろうから、自己(事故)責任として運転するのは認めざるを得ないと思う。

 こう言うと、「人の命がかかっているんですよ!」というお節介な人がいるかもしれないので、以下の話を追加しておこう。

■「年齢」ではなく「場所」で規制するべき

 その昔、日本では超高齢者でもこんにゃくゼリーを食べることができた。

 しかし、こんにゃくゼリーを喉に詰まらせて死亡する人が出たことで、こんにゃくゼリーはサイズを小さくすることが義務付けられ、超高齢者は食べない方がよいという注意喚起が為された。

 現在、日本では超高齢者でもお餅を食べることができる。

 しかし、お餅を食べて窒息死する超高齢者が毎年いるにも拘らず、超高齢者がお餅を食べてはいけないという法律はできていない。そして、この件で「人の命がかかっているんですよ!」と言っているような人もいない。

 この2つの場合、矛盾があることは否定できないが、結果的にはどちらも食べることを禁止するまでには至っていない。なぜなら、どちらも死亡するのは本人であって、他人を殺傷するわけではないので、自己(事故)責任が適用されているということができると思う。

 もちろん、お餅を喉に詰まらせて死亡してしまえば、その死亡した老人の家族には悲しい思いをさせることになるので、誰にも迷惑がかからないというわけではない。しかし、その家族すら、高齢者がお餅を食べることを否定しているわけではないので、自己責任として受け入れるしか方法がないということになっている。

 ということで、もし超高齢者に運転を禁ずるのであれば、一律平等に年齢で規制を設けるのではなく、場所を規制した方が良いと思う。
 例えば、「超高齢者は高速道路を運転してはいけない」とか「歩行者の多い都会の運転を禁止する」とかなら、まだ頷けるという高齢者も多いのではないかと思う。
 超高齢者運転禁止区域を設けて、そういう標識でも作ればよいかもしれない。



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posted by 自由人 at 10:47 | Comment(0) | 社会問題
2019年04月30日

「官僚の罪」が「政治家の罪」になる国


■「高齢ドライバー事故」は政治問題か?

 東京の池袋で、元通産省官僚の87歳の老人が車の暴走事故を起こし、多数の死傷者が出たことで、様々な角度からの批判が現出した。
 当初は、単純な高齢ドライバー問題に終始するのかと思いきや、事故を起こしたのが元官僚だったということで、「上級国民」などという聞き慣れない言葉も飛び出し、日本の階級社会問題にまで踏み込んだような意見まで出てくる始末。

 それら(高齢ドライバー問題・階級社会問題)は誰もが疑問に思っても仕方がないことだと思われるので、どんどんと議論すれば、社会の歪みが良い方向に矯正されるかもしれない。しかしながら、この問題を悪用して、またぞろ、政治問題にしようとしている人々がいるのはいただけない。

 加害者についての問題点を追及することは被害者のことを考えるという意味では正当化されても、全く関係のない政治家に責任を転嫁する行為は、被害者を冒涜する行為に繋がる。如何に美辞麗句を並べて政治家を批判したところで、それは被害者を利用した卑怯な行為にしか映らない。
 普段は「人が死んでいるんですよ!」と言っているような人物が、被害者を利用して政争の具にしようとする行為は醜い。

 そもそも「上級国民」として批判されている高齢者ドライバーは、元官僚であって、政治家ではない。日本では、これまでにも官僚の罪が、いつの間にか、政治家の罪にすり替わってしまうことが多々あった。モリ・カケ問題などはその良い例だろう。

■「官僚」と「政治家」は別々の組織と考えるべき

 日産のゴーン氏逮捕による「人質司法」問題ですら、司法(検察)の問題ではなく、行政(政治家)の問題にしている人もいる位なので、何をか言わんやである。

 政治家が官僚のスケープゴートになってしまっているということは、権力を批判しているつもりが、その実、権力に阿(おもね)る構図になってしまっているということでもある。偉そうに権力批判している人物が、そのことに気が付いていない姿は滑稽ですらある。

 これは、反安倍勢力だけでなく、親安倍勢力にも言えることで、どちらにも「官僚」と「政治家」の区別が付いていない人がいるように思われる。

 「極左」と「極右」は思想的に重なる部分があると言われているが、まさにこういう部分が、それに該当する。無論、反安倍勢力が「極左」、親安倍勢力が「極右」という意味ではなくて(実際は左翼と保守)、思想的には向かう方向が逆であっても部分的に共通している“誤解”が有るという意味である。

 《「上級国民」としての「官僚」と「政治家」が、国民を欺くために全てにおいて結託している》というような陰謀論は間違いであり、「官僚」と「政治家」は別々の組織と考えなければ、正しい社会の在り方は見えてこないと思う。



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posted by 自由人 at 23:09 | Comment(0) | 社会問題
2019年04月25日

「酒に呑まれて人生を狂わす」芸能人の悲劇


■「酒を飲む」と「酒に呑まれる」

 「酒は百薬の長」とも言われ、「病は気から」の“気持ち”の部分を大きくする効果がある。理性を酔わせることで、気分が良くなり(ポジティブになり)、病を寄せ付けない、「酒は百薬の長」という言葉には、そんな意味も込められているのかもしれない。

 ところで、芸能界では麻薬だけでなく、酒で人生を狂わす人というのが定期的に出現する。飲酒運転で交通事故を起こし人生を狂わせる人もいれば、女性に破廉恥な行為をして人生を狂わす人もいる。これらは全て、お酒を飲んだから人生が狂ってしまったと言うよりは、お酒に呑まれてしまって人生が狂ってしまったと言っても差し支えないだろう。

 つい先日も、人気音楽グループのAAA(トリプルエー)のリーダーが酒を飲み過ぎて泥酔し、女性に暴力を振るい逮捕されるという事件があった。これも当の本人は全く記憶が無いということで、完全に酒に呑まれてしまった良い例だと思う。その代償として、芸能界の掟通り、無期限の謹慎処分を食らい、人生を狂わせるに足る痛ましい結果を招いてしまった。

 酒には理性を麻痺させる効能があるので、自らの理性の器の大きさを知った上で飲まなければいけない。ここまでなら大丈夫という自己のボーダーラインを知り、その範囲内でお酒を嗜むのが大人の飲み方だと言える。

 そういう意味で、酒を飲むのは、理性を少し酔わせる程度がベターだと言える。理性を少し酔わせて、ほろ酔い気分になるまでが“酒を飲む”という行為に該当する。しかし、その一線を大きく超えてしまうと、“酒を飲む”行為ではなく、“酒に呑まれる”行為になってしまい、主従が逆転してしまう。人ではなく、酒が主役となってしまい、理性ではなく人間そのものが、酒に酔わされてしまうという本末転倒な事態に陥ってしまう。

■泥酔状態は「我思わない、ゆえに我なし」

 酒に呑まれた人間は、制御するべき意識が消失するという意味では、本能のままに動く木偶人形と言ってもよいかもしれない。「我思う、ゆえに我あり」というデカルトの言葉に準えれば、「我思わない、ゆえに我なし」、つまり、疑うべき自分が存在しない状態だとも言える。

 こうなると、もう理性はどこかへ吹っ飛んでしまい、本人の意思とは無関係に恰も夢遊病者の如く本能の赴くままに彷徨うことになる。泥酔している当人にとっては全てが夢の中の出来事であり、その状態で車に乗車してしまえば交通事故を起こし、美しい女性が目の前にいれば、声をかけるだけでなく、抱き付いてしまうなどの欲望丸出しの破廉恥行為に至る場合もある。もちろん、本人は心を持たないマリオネット(操り人形)のように、何も覚えておらず、目が覚めた時には夢ではなく現実だったことが判明し、全てが後の祭りとなってしまう。

 泥酔して罪を犯した人間は、罪を犯した自覚が無いという意味では、冤罪の被害者にでもなった気分なのかもしれない。故意に罪を犯したわけではないと言いたくなる気持ちも解らないわけでもない。しかしながら、誰かに無理矢理に酒を飲まされたわけではなく、泥酔するまで酒を飲むと判断をしたのが、意識のある時点での自分自身であるのならば、世間からは「自業自得」という厳しい判決が下されることになる。

 「我思う、ゆえに我あり」という人間性が失われると、誰もが夢と現実の区別が付かなくなり、人生を狂わせる悲劇の主人公を演じることに繋がってしまう。「百薬の長」と言われる「お酒」も限度を超えると「麻薬」と化し「百の長」にも成り得る。

【関連記事】飲酒運転(酔っぱらい)を法律で縛ろうとする愚かさ



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2019年04月22日

「武士道」の国の有給休暇


■「働き過ぎ改革」としての有給休暇強制取得制度

 元々、年間5日間以上の有給休暇を取得している人にとっては、あまり関係のない話なのかもしれないが、この4月から「働き方改革」の一環として、有給休暇を年間5日間取得することが義務付けられた。無論、労働者にではなく、企業に対して課された義務であり、違反した企業には罰金(従業員1人につき30万円)が課されることになっている。
 ちなみに、この制度は正社員だけでなくパートやアルバイトにも適用されることになっている。ただし、週4日以上勤務し、勤続年数が4年を超える人に限られる(週3日勤務なら勤続年数6年が必要)。

 有給休暇は法的には労働者に与えられた権利ということになっているが、その権利を行使できない労働者に対して有給休暇を取得するように国が義務付けたとも受け取れる。

 政府が企業経営に口出しすることを嫌う人は大勢おり、本来であれば、口出しするべきではないのだが、この有給休暇制度については、政府が音頭を取るのも仕方がないのかもしれないな…と思える。なぜなら、日本は、有給休暇を取得しづらくする「高度な倫理観」を有した世界でも稀な国だからである。

 「有給休暇」というものは、読んで字の如く「休んでも給料の出る休日」のことを意味しているが、政府が罰則を設けることで初めて気兼ねなく有給休暇を取得できるというような国は、おそらく日本だけだろうと思う。国と言うより、国民性と言った方がよいのかもしれないが、これは日本の良いところでもあり悪いところでもある。

■日本ならではの勤労文化

 日本人であれば、道に財布やスマホが落ちていれば、最寄りの警察に届けるのが一般的になっている。これは日本でしか見られないような珍しい行為であり、海外(特に他のアジア諸国)では、落ちている財布を、わざわざ善意で警察に届けるような人はほとんどいないと言われている。
 これと同じように、雇い主がタダ(無料)でくれる休日を全く取得せずに、せっせと働くのも日本人だけとも言われている。

 この日本人の勤労精神(メンタリティ)を「奴隷根性」と言う人もいるが、もっと相応しい言葉で言うと、「武士道」という日本に深く根付いた「やせ我慢文化」というものが根底にある。良い意味では「勤勉の精神」とも「資本主義の精神」とも言い換えることが可能かもしれないが、倫理観というものが根付いた日本ならではの勤労文化とも言える。

 ただ、そんな真面目で遠慮深い日本人だが、傍から観ていると、どうも本音ではやはり有給休暇を取得したいと思っている人が大勢いることが窺える。やせ我慢で「有給休暇は取らない」と言っていても、本音では有給休暇を取る人を妬んでいるような人は大勢いるように見受けられる。そして、そういった人々が多く存在するため、皮肉にも有給休暇が取れない風土が醸成されたとも言える。

■「労働者(武士)は食わねど高楊枝」文化

 お国柄、日本全体が有給休暇を取得すること(=働かずにお金をもらうこと)を罪深いことだと考えるようになっている。それは倫理的に見れば、素晴らしく高度な倫理観(責任感)の現れではあると思う。しかし、その強過ぎる責任感によって働き過ぎて(無理をし過ぎて)病気になる人や過労死する人がいるのも事実であり、行き過ぎた倫理観(責任感)が招いた悲劇でもある。

 その微笑ましくも哀しい姿の背景には「武士は食わねど高楊枝」という言葉が垣間見える。本当は休みたいのに、休みたくないように振る舞う。まさに「武士道」である。

 こういった、やせ我慢文化は、高度経済成長期のように、仕事が有り余り、休むことで明らかに仕事が遅れるという時代にはマッチしたのだと思う。しかし、現代のように仕事が機械化され効率化したことによって休日を取ることが必ずしもマイナスにならない時代にはマッチしなくなっている。

 昔のように年がら年中、繁忙期ではなく、閑散期というものも有る時代なので、むしろ、適度に休日を取る方が労働生産性が上がるような会社も増えているのでないかと思う。
 ただ、使用者側から観れば、休んでも休まなくても給料を支払わなければいけないので、それなら休まない方がプラスになると思い込まれているだけだと思われる。

 「武士道」精神が邪魔をして労働生産性が下がるのであれば、明らかにバランスを欠いていると思われるので、時にはストレス解消のために、やせ我慢し過ぎる精神を解放する柔軟性も必要だろうと思う。

 そういった柔軟さが失われた日本では、国が有給休暇を取得するように強制しなければ、いつまで経っても考えを変えることはできない。既に遅きに失した感は否めないが、政府が有給休暇取得の音頭を取るのは、お国柄的に、止むを得ないと思う。





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posted by 自由人 at 20:53 | Comment(0) | 社会問題