2019年11月19日

沢尻エリカ逮捕劇騒動の雑感


■沢尻エリカ氏はスケープゴートにされたのか?

 沢尻エリカ氏が麻薬取締法違反で逮捕されたことにより様々な議論が巻き起こっているが、中には「沢尻エリカは桜を見る会のスケープゴートにされた」という意見もあるらしい。
 主に鳩山由紀夫氏とラサール石井氏の意見が槍玉に挙がっており、2人の意見を堀江貴文氏(以下、ホリエモン)が批判している格好となっている。

 鳩山由紀夫氏とラサール石井氏の意見はそれぞれ以下の通り。

▷鳩山由紀夫氏
沢尻エリカさんが麻薬で逮捕されたが、みなさんが指摘するように、政府がスキャンダルを犯したとき、それ以上に国民が関心を示すスキャンダルで政府のスキャンダルを覆い隠すのが目的である。私も桜を見る会を主催したが、前年より招待客を減らしている。安倍首相は私物化し過ぎているのは明白である

▷ラサール石井氏
まただよ。政府が問題を起こし、マスコミがネタにし始めると芸能人が逮捕される。これもう冗談じゃなく、次期逮捕予定者リストがあって、誰かがゴーサイン出してるでしょ

■スケープゴートにも2種類ある

 沢尻エリカ氏が桜を見る会のスケープゴートにされたのかどうかは残念ながら判らないので、何とも言えないが、実質的には本当にスケープゴートにされたのと同じ結果となっていることは否定できない。多くの庶民の関心事が、ある瞬間に、「桜を見る会」から「沢尻エリカ」に切り替わってしまったことは間違いない。

 しかし、だからといって、自民党や安倍総理の陰謀だとは正直、思えない。何者かの忖度ということなら有り得るかもしれないが。

 沢尻エリカ氏本人の供述では10年前から既に麻薬常習者であったらしいので、この10年間は運良く野放しのままで、急にこの時期になって逮捕となるのは不自然だという気持ちも理解できる。
 「事件の裏には事件がある」(私の造語)という言葉通り、政治家がスケープゴートを利用するというようなことは古今東西、実際に行われてきたことでもあるので、世の中にスケープゴートが無いと言うつもりもない。
 各国の政界にスパイという存在がいることも事実であり、スパイが映画や小説の中だけの話でないのと同様に、スケープゴートにされる人物が存在することもまた事実である。

 ただし、今回の沢尻エリカ氏の場合は、自ら罪を認めており、法的な罪を犯したことも事実であるので、スケープゴートであろうとなかろうと、逮捕されたことは仕方がないという側面がある。冤罪でスケープゴートにされる場合と、本当に罪を犯している場合のスケープゴートは同じではないので、沢尻エリカ氏を被害者だと位置付けるのは少々無理がある。

■「一発アウト」が意味するもの

 最後にもう1つ、沢尻エリカ氏に対する杉村太蔵氏の「一発アウト」という言葉に対してもホリエモンがこう反論している。

>「なんで自分でそこまで追い込むの?一発アウトとかおかしいでしょ普通笑。まあ、そういう追い込む芸なんだろうけどさ。

 杉村太蔵氏とホリエモンの意見が噛み合わないのは、この「一発アウト」には、2つの意味合いがあるからだと思われる。

 今回の事件発覚によって沢尻エリカ氏の現在の芸能活動は本当に「一発アウト」になってしまった。テレビドラマは撮影中止、テレビCMも放送中止、この時点で既に「一発アウト」だ。

 しかし、一方で、人生そのものを意味する「一発アウト」というものがある。一度、罪を犯した人物は未来永劫、その罪から逃れられないとする「一発アウト」だ。

 おそらくホリエモンが言っているのは、後者の「一発アウト」はおかしいということなのだろうと思う。たとえ麻薬を使用するという罪を犯したのだとしても、罪を償い反省すればどうなのか? 例えば、10年後に本当に真っ当な人生を歩んでいたとしても、絶対に女優として復帰できないということであれば、そんな「一発アウト」はおかしいでしょという意味合いなのだろうと思う。

 犯した罪にもよるが、たとえ間違いを犯したとしても、改心することによって人生をやり直すことができるという優しさは必要だろう。1度の過ちで人生の全てが灰燼と化すような窮屈な社会であれば、麻薬常習者も増える一方だと思われる。
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posted by 自由人 at 20:41 | Comment(0) | 社会問題
2019年11月09日

「あおり運転」の罰則強化で考える憲法改正の必要性


■「あおり運転」で「運転免許取り消し」

 今年の流行語大賞になるという予想も出ている「あおり運転」、その煽り運転の法的な罰則が「運転免許取り消し」になったらしい。

 これまで、煽り運転を取り締まる法律が無かったため、急遽、法律が改正されたということなのだろう。善良な国民の生活に支障をきたす者が現れると、意図も容易く法律は改正される。しかし、善良な国民の生活に支障をきたす国が現れても、国を縛る法律たる憲法は改正されない。これは非常に可笑しなことでもある。

 法律の不備があれば即修正するが、憲法の不備があっても何十年も修正しない。車の煽り運転には敏感だが、国の煽り運転には鈍感だと言える。

 ミサイルで挑発されようとも、嘘を言って騙されようとも、国の領土を奪うことを画策されようとも、お構い無し。それらの煽り行為を防止するためには憲法を変える必要が有ると思われるのだが、ほとんど話題にすらならない。

■国民の生命と財産を守るためにも憲法は変えるべき

 地震で津波が来れば、防波堤を高くしようとし、台風で河川が氾濫すれば、より高い堤防を築こうとする。何のために? 国民の生命と財産を守るために。
 しかし、攻撃されようが、金銭を要求されようが、占領を計画されようが、何も改善策を講じようとしない。否、正確に言うなら、改善策を講じようとしないのではなく、改善することを大声で反対する勢力が邪魔をしているというのが実態だろうか。

 ではなぜ、邪魔をするのか? 無論、それは他人である多くの国民の生命や財産を守るためではなく、自分達の既得権益を守るためというのが1つの大きな理由なのだろう。

 憲法が大事というのではなく、一部の人間の既得権益が大事なので、憲法の不備を変えることができない。「欠陥憲法」を「平和憲法」と偽るのもいい加減に限界だと思われるのだが。

 煽り運転を繰り返す近隣国に対する罰則を強化するという意味でも憲法は変えるべきだと言える。


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posted by 自由人 at 09:16 | Comment(0) | 社会問題
2019年10月30日

洗脳用語と化した「失言」という言葉


■「失言」とは「失礼な発言」のこと

 前回、政治家の「失言」についてのブログ記事を書いたばかりだが、現在の日本では、この「失言」という言葉が正しく理解されないまま独り歩きし、本来の意味合いからかけ離れた言葉として認識されているような気がする。
 「失言」かどうかという線引きが極めて曖昧になっており、今回の荻生田氏の発言でも、ある人は「失言だ」と言い、ある人は「失言ではない」と言っている。

 現在の日本で、「失言」と聞くと、「暴言」や「人間失格」というような、まるでタブーにでも触れたかのような絶対的な負のイメージを思い浮かべる人が多くなっているのではないかと思う。

 大辞林で「失言」という言葉を調べてみると、以下のように書かれている。

 「不都合なこと、間違ったことなどをうっかり言ってしまうこと。

 もっと解りやすく一言で言えば、「礼な発」というのが「失言」の意味だと言える。

 会社員であろうと、公務員であろうと、職場で「失礼な発言」をする人はどこにでもいる。ついウッカリ「失礼な発言」になってしまう人もいれば、元々、素の状態で「失礼な発言」をする人もいるし、酔っぱらってしまえば誰もが「失礼な発言」のオンパレードだ。

 だから、政治家が失言(失礼な発言)をしたとしても、それは個性の違いから発生する言葉遣いの違いでしかない場合がほとんどであり、本気で誰かを差別したり、馬鹿にしたりしているようなことは滅多にないと思う。

■「失言=悪」「失言=辞任」という洗脳

 左翼系のテレビ番組や新聞を熱心に読んでいる人の多くは、メディアが好んで使用する「失言」という言葉にすっかり乗せられてしまっており、いつの間にか、「失言=悪」「失言=辞任」という具合に洗脳されてしまっているとも言える。

 「一般人が失言することは許されるが、政治家が失言することは許されない」と言っている人もよく見かけるが、なぜそう言えるのだろうか?

 頭をゼロクリアして、もう1度、その言葉を聞いてみると、「あれっ?」と思う人もいるのではないかと思う。
 私人が失言しようと、公人が失言しようと、大きな違いはない。不完全な人間である限り、失言の1つや2つは誰でもするものであり、そのことが理解できていれば、大した問題ではないということが腑に落ちると思う。

■「失言の1つも許さない」メンタリティとは?

 「失言の1つも許さない」というメンタリティは、実は独裁国家のものである。その証拠に、中国や北朝鮮の報道番組などを観ていると、“笑い”という概念が微塵も無いことが分かると思う。いつ見ても、気難しい顔をしており、笑顔というものが全く見られない。
 なぜ笑いが無いのかと言えば、失敗(失言)すれば罰されるという強迫観念が有るためである。

 共産主義国家では、国から与えられた仕事で失敗すると、他の仕事を探せなくなるという息苦しさがある。しかし、資本主義国家では、自分で選んだ仕事で失敗しても、やり直しがきくという自由がある。仕事が嫌なら他の手段(例:投資など)で生活することもできる。もちろん、そこには失敗するリスクもあるが、全く逃げ場がない共産主義国家よりも、はるかに生き易い社会だと言える。だからこそ、失敗を笑いに変えることができる。

 1つの失敗(失言)が命取りになるというような恐怖で支配された国よりも、失敗(失言)を笑いに変えることができる国の方がよっぽど人間的だと言える。

 「失言は悪」「失言は辞任」と煽っている人々は、日本を、ニュース番組も笑顔で伝えることのできない独裁国家のような窮屈な国にしたいのだろうか?
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posted by 自由人 at 23:21 | Comment(0) | 社会問題
2019年10月21日

「教師いじめ事件」カレー禁止が意味するもの


■人間ではなくアイテムが主犯になる国

 先々週のブログ記事で取り上げた神戸の「教師いじめ事件」は、当初、一過性の地方事件で終わると思われたが、加害者がスマホで撮影した実際のいじめ画像が出回ってしまったことで、火に油を注ぐ形になり瞬く間に全国ニュースになってしまったようだ。

 日本では、何か社会的な事件が起こる度に、その場限りの場当たり的な対症療法が講じられる向きがある。

 例えば、通り魔がナイフで人を殺傷する事件が起これば、ナイフの所持が禁止される。これなどは、まるで「人を刺した犯人は人間ではなくナイフだ!」と言わんばかりだが、今回の教師いじめ事件でも、同じような対象療法が講じられた。
 教師いじめにカレーが使用されたので、カレーを給食メニューから外すという、まるで「いじめを起こした犯人はカレーだ!」と言わんばかりの信じ難い対症療法が採られた。
 
 もしかすると今回も「カレー禁止は当然の処置だ」と言うような言論人が出てくるかと思われたが、さすがに無理があると判断したのか、給食のカレー禁止を決定した教育委員会が批判の矢面に立たされている。

■教育委員会が真に恐れているものとは?

 しかし、ここで考えなければならないことは、「教育委員会が恐れているものは何なのか?」ということである。

 「生徒達が給食のカレーを見てショックを受ける(いじめを思い出す)」というような意見もあるようだが、普通に考えると、生徒達が給食のカレーを用いて、面白半分にいじめ行為を真似するという危惧があるのだろうと思う。

 もし、生徒達が教師の真似をして、本当にいじめ事件を起こしてしまった場合、現状の教育体制では、教師がいじめを止めることができない。なんせ、教師が生徒に平手やゲンコツでもしようものなら、体罰(暴力)事件として訴えられかねない。そんな状態では、教師は口頭で注意するしか方法がない。しかし、口で言って止めるような生徒なら、初めからいじめ行為など行わないだろう。

 それで結局、いじめを見て見ぬ振りすることになり、実際に生徒によるカレーいじめは、ほぼ間違いなく発生することになる。
 それがいじめと呼べるものでなかったとしても、表沙汰になると困るのは教育委員会だ。教師によるカレーいじめ事件を校長が隠蔽していたことが発覚し、今度は生徒によるカレーいじめ事件が報道されてしまえば、教育委員会も一蓮托生で、もはや立つ瀬が無くなってしまう。

 給食メニューからカレーを排除したということは、これまで「いじめは無い」と言い張ってきた教育委員会自体が、いじめは起こると信じていることを意味している。カレーそのものが命取りになりかねないという恐れを抱いているからこその「カレー禁止」だったと言える。

■「いじめが有る」という不都合な真実

 こんな話を書くと、なにか悪い冗談のように聞こえるかもしれないが、その冗談のようなことが現実に目の前で起こっているのだから仕方がない。教育者がこんな調子では、いつまで経っても、学校におけるいじめは無くなることはないだろう。

 今日もまた、千葉県の小中学校でいじめが(教育委員会によって)隠蔽されていたという悪い冗談のような報道があったばかりだが、このような問題が後を絶たないのは、偏に、いじめを無くすことを真剣に考えてこなかった結果(=自業自得)だと言える。

 理想主義に基づく教育現場で、いじめが有るという不都合な真実を認めたくないため、常に場当たり的な対症療法で言葉を濁し、臭いものには蓋をし続けてきた偽善的な公教育現場。
 我々が現在、目にしている醜態は、その膿みが表面化した姿なのかもしれない。

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posted by 自由人 at 22:48 | Comment(0) | 社会問題
2019年10月18日

ユニクロ柳井氏発言で考える「日本人が劣化した証拠」とは?


■「韓国が日本を敵対視するのはおかしい」

 ユニクロの柳井会長の「日本は最悪、韓国が反日なのは解る」という発言が注目を集めている。柳井氏は雑誌のインタビューでこう述べられたらしい。

 >「日本が韓国を敵対視するのはおかしい

 柳井氏のこの発言は、韓国におけるユニクロ商品の不買運動を緩和するためのポジショントークなのかもしれないが、もし、政治・社会的な意味合いで述べておられるのだとすれば、あらぬ誤解を生む恐れがある。

 そもそも論において、「日本が韓国を敵対視している」という認識自体が的を射ているとは思えない。
 日本を敵対視しているのは韓国の方であり、韓国が国際的にまともな大人の対応をしてくれれば何のトラブルも発生していない。韓国が日本を敵対視し、日本はそんな大人げない韓国を無視しているというのが正しい認識だと思う。

 「日本が韓国を敵対視すればユニクロ商品は売れなくなる
 「韓国が日本を敵対視していてもユニクロ商品は売れる」
 「日本が韓国を敵対視しなければユニクロ商品は売れる」
 「韓国が日本を敵対視しなければユニクロ商品は売れる」

 韓国が日本を敵対視しようがしまいがユニクロ商品は売れるのに、日本が敵対視するという条件下でのみユニクロ商品が売れなくなる。
 この理屈からいくと、問題は日本ではなく韓国ということになる。

■韓国が日本に反感をもつようになった理由

 柳井氏は以下のようにも述べられている。

 >「日本が韓国に反感をもつようになったのは、日本人が劣化したという証拠だ

 この言葉を裏返せば、「日本人が劣化しなければ、日本は韓国に反感をもつことはなかった」ということになるが、はたしてこれは正しい認識だと言えるだろうか?

 戦後の日本人が戦前の日本人よりも劣化したという認識は、ある意味では正しいと思えるが、それは思想的に左寄り(反日)に傾き過ぎたという意味での劣化だと思う。

 しかしながら、日本人が左寄り(反日)に傾き過ぎたことで韓国に反感を持つようになったと言うのでは筋が通らない。むしろ、左寄り(反日)に傾き過ぎたことで韓国に対して甘くなり過ぎたというのが正しい認識だと思う。

 公職追放前の戦前のまともな保守論客が戦後にも多く存在し続けていれば、正しいものは正しい、間違っているものは間違っていると、もっと早くから言っていたはずであり、もしそうであるなら、韓国がここまで反日になることも無かっただろうし、日韓関係がここまでこじれることもなかっただろうと思う。

 だから正しくは、

 「韓国が日本に反感をもつようになったのは、日本人が劣化(反日化)したという証拠だ

 ということになる。
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posted by 自由人 at 19:53 | Comment(2) | 社会問題
2019年10月08日

「生徒間のいじめ」も「教師間のいじめ」も同じ扱いの教育現場


■漫画のような「教師いじめ」の発覚

 神戸市の公立小学校で教師による教師いじめが行われていたことが発覚し、巷では「前代未聞の事件」「教師にあるまじき事件」として騒がれている。

 30代の男性3人と40代の女性1人が、20代の男性1人をいじめていたらしく、スマホで撮影していたという動画が拡散されている。
 まるで漫画のような出来事だが、こういった事件の発覚を目の当たりにすると、漫画の世界だけでなく現実社会の人間も「いじめ」という行為そのものを無くすことができない業の深い生き物なのだということがよく分かる。

 「教育者とは思えない卑劣な行為」というような言葉も見かけたが、教師と言っても、ただ教職員試験をパスしただけの普通の人間に過ぎない。教師になるために聖職者としての儀式を通過するわけでもなく、一般の人間よりも倫理的・道徳的に優れている資格条件を有しているわけでもない。

 今回のいじめ動画を観る限りでは、教師と言うよりも精神年齢の低い子どもを観ているような錯覚を覚えた。あれでは性質(たち)の悪い中学生のいじめっこの姿そのものであり、まるで漫画の『怨み屋本舗』の世界そのまんまと言える。

■未成年と同じ扱いの加害者教師

 しかし疑問に思うのは、なぜ、いじめの被害者だけでなく、加害者の顔や名前まで隠されているのか?ということだ。
 普段、生徒間でいじめ行為があった場合、“未成年”という理由で顔も名前も公表しないことが習わしになっているが、今回の場合は、明らかに成人であり、況してや教師という責任ある立場にいる人間である。自らが犯した罪については責任を持って謝罪することが教職者としての常識ではないのだろうか? そんな覚悟も持たない人間になぜ教師が務まるのだろうか?

 警察官が暴力行為や痴漢行為を行えば、普通は実名で報道される。そんな警官を野放しにしては危険だからというのも1つの理由だ。同じように、いじめを諌めるべき教師がいじめ行為を行ったのであれば、実名報道するべきではないのだろうか? 今回の場合、冤罪である可能性も無いので尚更だ。
 それとも、未成年者と同じように「写真や名前を報道すると教師の将来に傷が付く可能性がある」とでも言うのだろうか?

■「いじめ」は有ってはならないという理想論

 戦後の公教育現場は「聖域」として扱われ、教師はその聖域における聖職者(労働者)という立場にあるとされる。そして、その聖域では「いじめ」というような悪の行為は有ってはならないということになり、皮肉にも、いじめは無くすものでなく、隠すものということが常態化してしまった。要するに、「聖域」における「いじめ」はタブーなのである。

 その証拠に、今回の教師によるいじめ行為も校長が教育委員会に報告していたらしいが、「(いじめ問題は)指導して収まった」と嘘を付いていたことが判明した。
 生徒間のいじめだけでなく、教師間のいじめも同じ扱い(隠蔽)なのであれば、年齢等は全く無関係であり、学校や教育委員会にとっては「いじめ」という行為そのものが有ってはならないものだと疑われても仕方がない。

 「学校」という名の聖域内で「いじめ」は有ってはならないというような、お花畑の理想論が根付き、生徒だけでなく教師にまで「いじめ」行為を為さしめる遠因となっているのだとすれば、その業(罪)はあまりにも深いと言わざるを得ない。
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posted by 自由人 at 20:03 | Comment(0) | 社会問題
2019年09月29日

儒教が根付いた国の悲劇


■行き過ぎた儒教文化が招いた悲劇

 どこの国でも「目上の人を敬わなければいけない」という文化がある。それは、どの国でも暗黙の了解事項として広く受け入れられている思想でもある。
 この年上を敬う文化は、多くの人間が同じ社会で軋轢を生まずに生活していく上で非常に重要な考えであることは間違いない。しかし、儒教的な文化が根強く残る国では、この考え方が行き過ぎて、逆に軋轢を生んでしまうことがある。

 例えば、儒教国として有名な中国や韓国などは、たとえ間違ったことをしても目上の者は目下の者に謝罪する必要は無いという行き過ぎた考えに支配されている傾向がある。このことは、最近の日韓問題を見ても明らかだと思う。

 目上(韓国)の者が明らかに間違っていたとしても、目下(日本)の者には絶対に謝ってはいけない。そういう考えが当然の文化として根付いているため、どんな正論も通用しない。正しいか間違っているかよりも、目下の者には謝罪しないということが正しい行為だという行き過ぎた儒教文化が招いた悲劇を我々は目の当たりにしているのかもしれない。
 そこに反日教育が加わると、もはやその洗脳を解くのは至難の業となる。文化としての儒教教育と、思想としての反日教育というものが相乗効果となり大きな障害となってしまう。

■日本にもある儒教文化

 儒教と言えば、日本にも少し変わった文化がある。
 普通の先進国では会社という組織の中での序列(社長・部長・課長・社員など)というものはあるが、会社の外に出てもその肩書きが100%そのまま生きているのは日本ぐらいかもしれない。

 会社を退職した上司に対しても、「○○さん」と呼ぶのではなく、「○○部長」とか「○○課長」と呼ぶことが当たり前となっている日本では、会社の序列が一生涯の序列となってしまう。それが悪いことだとは言えないが、意識するしないに拘らず、「年上は永遠に年下よりも偉い」という儒教的な考えが根付いていることになる。

 しかし、会社の先輩(上司)と後輩(部下)は、仕事の技能や知識では先輩の方が後輩よりも勝っていたとしても、生活面での趣味や特技では先輩よりも後輩の方が経験豊富な場合は多々ある。仕事については教える側と教えられる側が固定されていたとしても、生活面ではその立場が逆転してしまうことがある。
 そういう場合は、如何に年上であろうとも、年下に教えを乞うケースもあって然るべきだと思うのだが、あまりそういう話は聞かない。先輩が後輩に対して「○○さん、これを教えてください」などということは先輩として恥ずかしいという文化が根付いている。異業種間や他社間では年齢は関係なくなるが、同じ会社内での上下関係だけは絶対となっている。これも、ある意味、儒教的な文化だと言えるのかもしれない。

■なぜ「年を取ると他人の話を聞かなくなる」のか?

 例えば同じ会社内に、ある種の専門書を年間に100冊読む後輩と全く読まない先輩がいたとすれば、その専門分野における知識量においては圧倒的に後輩の方が勝っているはずであり、先輩が後輩よりも勝っているとは限らない。
 そんな場合でも、年上は年下よりも絶対的に偉く、頭(こうべ)を垂れて教えを乞うことは許されないということであれば、行き過ぎた儒教文化と言うしかない。

 よく日本では、「年を取ると他人の話を聞かなくなる」と言われることがある。それも結局のところ、儒教的な価値観のせいではないか?と思うことがある。年寄りが「自分は年下の話など聞く必要はない」と思っていると、自分自身が年々、年を取る度に話を聞く相手がいなくなってしまうという単純な理屈なのかもしれない。

 目上(年上)の人が目下(年下)の人の話を素直に聞くという姿勢は、韓国だけでなく日本でも重要なことだと思う。

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posted by 自由人 at 22:51 | Comment(0) | 社会問題
2019年09月16日

「台風15号」が教えてくれたもの


■台風被害で第一に考えなければならないこととは?

 台風15号による被害は想像以上に大きなものであったらしく、時間が経過するに連れて明らかになっていく被害の大きさを問題視する意見が飛び交っている。当初、報道されていた被害規模と実際の被害規模があまりにも違うことから、マスコミ報道を流言飛語(デマ)だったと責め立てる声も聞かれる。

 しかし、今回の台風被害で我々が第一に考えなければならないことは、そういった責任の所在論ではなく、自然災害による電力消失が如何に生活に悪影響を及ぼすかということである。マスコミの報道がいい加減になってしまったことの最大の原因は、情報を伝達・把握するための“電気”というインフラが機能不全に陥ったことにある。
 そういう意味では、台風の被害状況の正確さよりも、電気を安定供給することの重要性にこそ目を向けなければならない。原因としての台風を人為的に止めることはできないのだから、結果としての被害を如何に減少させるかに目を向けなければならない。

■考えるべきは「電力供給の重要性」

 奇しくも、14日にはサウジアラビアの石油施設がドローン攻撃を受けたという報道があったばかりで、石油の供給量が一時的に5%ダウンするという計算から、原油価格が10%以上も急騰した。

 こういう石油が入ってこなくなるようなリスクも同時に顕在化しており、ますますもって、日本のエネルギー問題に注視しなければならない状況となっている。

 こんな状況下で原発を廃止して自然エネルギーのみに頼るというような時代錯誤な意見こそ見直す必要がある。原発を止めて(石油を燃料とする)火力発電も止まってしまえば、どうやって電気を安定的に供給するつもりなのだろうか?

 今回の台風は、皮肉なことに、誰の目にも分かる形で電力供給の重要性を我々に教えてくれている。台風による被害報道の正確性よりも、もっと重要な本質に目を向ける必要があることを暗に示している。

【追記】2019.9.16

(BLOGOS転載記事のコメントに対する返答になります)


>>文意をちゃんと解釈するなら「台風被害で第一に考えなければならないこととは」、送電ではなく原発(発電)だとそう言ってるわけですよ。「第一に」なのだから両方は無い。


 よく読んでもらえば分かると思いますが、今回の記事の前半は「自然災害における電力供給の重要性」、後半が「燃料問題における電力供給の重要性」を書いています。もちろん、そこには送電線の保護(地中埋め込み等)も含まれています。原発だけが重要と言っているのではありません。


>>筆者のロジックは、何でもかんでも安倍批判に繋げようとする左派のそれと同じ。単に反原発を攻撃したいだけなのですね。


 別に反原発の人に怨みなどありません。論理的に考えると、筋が通らないと言いたいだけです。


>核廃棄物問題が解決しておらず原発に稼働限界のあるなかで、原発を稼働して使い切ってしまえ!とやるのも同レベル。


 核廃棄物問題は将来的に科学が進歩すれば解決する可能性があります。それが無理だと言うのは現代科学が最高だという思い込みからきています。しかし現段階で、原子力発電の開発を終わりにしてしまうと、同時に核廃棄物問題も将来的に解決されない可能性が出てきます。それこそ膨大な無駄になります。


>筆者がドローン攻撃の話をしているのは、単に台風被害からドローン攻撃へと論点をすり替えているだけの話で、最初から台風被害の話などする必要が無い文脈なわけです。


 2つの問題を並べただけで、なぜ論点のすり替えになるんでしょうか?


>何故、台風被害から入ったかといえば、より身近な問題から入ることで、反原発への批判を大きくしようという印象操作以上のものでは無いのですね。


 そんな印象操作をして私に何の得があるんでしょうか? 誰かからお金をもらえるとか?
申し訳ありませんが、本記事を書いて入ってくるお金は基本的に0円です。


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posted by 自由人 at 16:27 | Comment(1) | 社会問題
2019年09月07日

日産自動車の「不正」と「リストラ」


■「ゴーン氏の不正疑惑」と「西川社長の不正問題」

 日産自動車の西川廣人社長が、不当に上乗せした報酬を受け取っていたことを自ら認めて謝罪した。
 元日産自動車社長のカルロス・ゴーン氏に対して、あれだけ善人ぶって不正行為を追及していた当のご本人がこんな調子なのだから、空いた口が塞がらないと言うか、何か因果応報的なものを感じてしまう。

 当時、日産自動車がルノーに呑み込まれる雰囲気を察知した日産経営陣が、経済産業省および検察と結託してゴーン氏排除に乗り出したという官策捜査説も飛び交っていたが、こういうブーメランの如く不正の発覚を目の当たりにすると、案外、その推測は図星を突いていたのかもしれないなと思えてしまう。

 私も以前のブログ記事で、ゴーン氏の逮捕劇とホリエモンの逮捕劇は似ていると書かせてもらったが、結局、不正問題などはどうでもよくて(目くらましの材料)、真実は一般人が知る由もないところにあるということなのかもしれない。

■「ゴーン氏のリストラ」と「現日産経営陣のリストラ」

 こんなことを書いても、逮捕された人物を端から疑ってかかり、自らが騙されている(真相を見失っている)可能性があることを考えもせずに批判してくる人もいると思う。
 「金持ちは悪」という思想が蔓延している日本では、ゴーン氏やホリエモンが無条件にヒール(悪役)になってしまうきらいがあるが、こういうところが、日本経済がいつまで経ってもデフレから抜け出せない元凶なのかもしれない。

 現在の日産自動車の株価は674円で年間配当が4000円なので、6%近い配当があることになる。ただ、この1年以上はずっと下降トレンドであり、業績も悪化し続けているので、いつまでも現在の配当が維持される保証があるとは言えない。

 ゴーン氏の行ったリストラを批判していた人達は、業績悪化で同じように大規模なリストラ(人員削減)に踏み切る現日産経営陣をどう思っているのだろうか?
 ゴーン氏の場合は、リストラを断行したことで日産自動車の業績をV字回復することに成功したが、現日産経営陣はリストラ後に(一時的にはではなく長期的に)業績を回復することができるのだろうか?
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posted by 自由人 at 16:06 | Comment(0) | 社会問題
2019年08月22日

ドライブレコーダーの普及が齎す「デジタル監視社会」


■正義の味方「ドライブレコーダー」

 ほんの少し前までは「高齢ドライバーの交通事故」問題が注目されていたが、最近では再び「煽り運転」問題が注目され始め、テレビ画面を通してドライブレコーダーに録画された煽り運転映像を見る機会が増えてきた。
 現在騒がれている日韓問題においても、韓国政府の姿を観ていると、まるで煽り運転のような様相を呈しているが、それはまた別の機会にブログ記事として書かせてもらおうと思う。

 今日も大阪で袈裟衣を着た61歳の僧侶が煽り運転をした挙げ句、大阪弁丸出しで後ろのドライバーを威嚇している姿を撮影した映像がテレビに映し出されていた。
 煽り運転の被害に遭った人からすると、ドライブレコーダーはこの上なく心強い味方なのだろう。

 私も先日、車を運転していると、右折中に右から抜いていくという信じられない車(ドライバー)に出くわした。公道をレース場と本気で勘違いしているのではないか?と疑った。幸い、事故にはならなかったものの、ドライブレコーダーを積んでいれば警察に突き出す証拠になったかもしれない。証拠が無いと泣き寝入りするしかないことが、ドライブレコーダーがあれば悪事を追及する証拠を用意してくれるので頼もしい。

 そんな正義の味方でもあるドライブレコーダーの利点ばかりが報道されているためか、現在はドライブレコーダーが飛ぶように売れているらしい。
 ドライブレコーダーの購入を躊躇している人には、ドライブレコーダーステッカーなるものが人気らしく、盗難防止用の偽ステッカーと同じ役割を果たしているらしい。

 先の僧侶は後ろの車のドライブレコーダーが見えなかったのか、それとも全く意識していなかったのかは不明だが、大きなステッカーが貼ってあれば目に入るので、煽り運転を防止する抑止に繋がった可能性はある。

■行き過ぎた「デジタル監視社会」の到来

 スマホの普及で車載ナビは売れなくなったが、現在ではスマホをドライブレコーダーとして使用している人もいるらしい。
 行き交う自動車全てにドライブレコーダーが付いている社会になれば、横断歩道を横切る度に複数台の車のドライブレコーダーに自分自身の姿が記憶される。犯罪防止の名の下に、肖像権の侵害が意識されずに合法的に行われる社会、まさに個人による監視社会の出来上がりとも言える。

 香港デモで揺れている現在の中国は誰もが認める世界一の監視国家でもある。無数に設置された高解像度の監視カメラによって国民のプライバシーは有って無いようなものだとも言われている。

 最近、日本で頻繁に発生している犯罪者の逃亡事件というようなものは中国では不可能であるらしい。それだけ日本の警察は緩いということなのか、中国が行き過ぎなのか判断するのが難しい問題だが、かつては巨大だった映像データが瞬時に移動できる5Gシステムの超情報化社会になると、世界中が行き過ぎた監視社会になる危険性もある。

 現在の中国を見ても判る通り、そういう社会は一般庶民にとっては諸刃の剣でもある。テキストや静止画像としての情報が飛び交う社会ではなく、映像が飛び交う社会。いつどこで自分自身が映像の中に記録されるか分からない監視社会がすぐそこまで来ている。

 現在の「煽り運転問題」の表面化は、近い将来に訪れる行き過ぎたデジタル監視社会の到来を予告しているのかもしれない。それは人類にとっての警鐘か?、それとも福音か?、その答えは情報を制する国の姿勢によって大きく変わってくる。

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posted by 自由人 at 22:46 | Comment(0) | 社会問題