2021年08月14日

人を疑うことよりも愚かな行為とは?


■「オレオレ詐欺」で考える「疑心、暗鬼を生ず」

 「疑心暗鬼」という四字熟語がある。略さずに言うと「疑心、暗鬼を生ず」となり、その意味するところは、「疑いの心を抱くと、ありもしない鬼の姿が見えるほど恐ろしくなる」という心の状態を示している。

 仏教的に「疑心」というものは、人間の戒めるべき煩悩の心の1つだと言われており、現代的にも「猜疑心」というものは克服するべき悪しき心の代表格という位置づけになっている。

 しかし、これも時と場合によるのではないかと思う。
 例えば、悪い人間が人を騙そうと画策している時に、「疑心」は戒めるべきなどと言っていると、どんな単純な詐欺にもコロッと引っ掛かってしまうことになる。

 具体的に言えば、「オレオレ詐欺」の電話がかかってきた場合、自分の子供や孫の声と少し違うと思っても、子供や孫を疑ってはいけないという戒めが優先されてしまうと、まんまと騙されて、お金を巻き上げられてしまうことになる。

 その場合、「疑心」を抱くことは悪になるか?というと、もちろん、ならないだろう。悪いのは、人を騙そうとしている側の人間の心であって、その悪人を疑うことではないからだ。

 「疑心」を抱くことは絶対的な悪ではなく、時と場合によることは、こんな単純な例えでも解ることである。

■「善意」と「疑心」の皮肉な関係性

 では、「善意」を持って接触してくる人間に対してはどうだろうか?

 「この株を買えば儲かりますよ」とか、「この薬を飲めば痩せますよ」とか言ってくる人に対して「疑心」を抱くことは悪だろうか? これもケースバイケースであり、「疑心」を抱くことは必ずしも悪にはならない。
 この場合、重要なことは、相手が「善意」の心を持っていたとしても、その人物が語っている言葉は真実かどうかを見極める能力が重要となる。たとえ、相手が善意で語っていたとしても、相手の認識不足により間違ったことを勧めている可能性がある。

 相手の人間性を疑うことは悪に成り得ても、相手の言っていることを疑うことは必ずしも悪にはならない。このことは、相手が間違いを犯さない完全無欠の人間でない限りは成立する。

 もし相手が善意で間違ったことを勧めていた場合、それを見抜けない場合は、あなたも相手も悪を犯していることになる。間違ったことを信じ込み、その間違ったことを家族や周囲の人間にまで拡散してしまった場合は、尚の事だ。

 ゆえに、疑うという行為は時には重要であり、必ずにも悪にはならない。本当の悪というのは、疑うことではなく、真実を見抜けないことだからである。

 最悪なのは、人一倍「猜疑心」が強いにも拘らず、真実を見抜けない人だと言えるだろうか。こういう人は、疑いの心と己の無知から、間違ったことを世間に広め、悪の拡大再生産を続けることが生業になってしまうので、最も愚かな行為を行っている人物ということになる。

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posted by 自由人 at 13:34 | Comment(0) | コラム
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