■事勿れ主義の曖昧な基準が悲劇を生んだ
今年の2月に大阪府高槻市の小学校でマスクを付けたまま持久走(5分間)を行った生徒が死亡していたことが判明した。
常識的に考えると、マスクを付けたまま走るなどというのは自殺行為としか思えないのだが、学校側が事勿れ主義の曖昧な基準を設けているため、マスクを着けたまま走るなどという危険な行為が罷り通ってしまったのかもしれない。その曖昧な基準とは以下の通り。
○体育の時はマスクを外しても良い
●新型コロナウイルスの感染などが心配な人はマスクを着けても良い
まさに、どっち付かずの事勿れ基準。こんな曖昧な基準を設けずに、「走る(運動する)時はマスクを外すこと」としておけば、このような悲劇は起こらなかったに違いない。
しかし、「走る(運動する)時はマスクを外すこと」などとキッパリ決めてしまうと、もしコロナに感染した場合、マスク警察等からバッシングされることになるのでできない。そんな裏事情が見えてきそうだ。
■「マスクさえ着けていれば安全」ではない
短距離走であれ長距離走であれ、全力で走り終わった後は息切れするほど激しい運動であることは誰もが知っている。身体は大量の酸素を必要としているのに、その酸素の吸入をマスクで遮断しているわけだから、こういった事故が起こるだろうことは事前に予測できたはずだ。昨年に酸素不足による熱中症が流行ったところを見ても明らかだ。
例えば、水泳選手が口の半分をテープで閉じて競技に臨めば、酸素不足で意識を失って溺れるかもしれない。そんな危険な状況を意図せず学校が作り出しているようなものだとも言える。
ところで、「飛沫を防ぐためにはマスクが必要だ」という意見をよく耳にするが、その飛沫自体が付着したマスクをずっと着けていると、いずれ乾燥し、飛沫の中にあったウイルスが体内に自動的に吸い込まれることになる。
飛沫が付いた時点でマスクを取り替えれば話は別だが、大抵の人は1日中、同じマスクを着けているので、長時間マスクを着けていることで余計に感染リスクを高くしていることになる。
ただし、飛沫と言っても、あくまでも感染者の飛沫が付けばの話なので、感染していない人間の飛沫がいくら付いたところで何の問題もない。
今やマスクは“同調圧力の象徴”と化してしまったので、その功罪を議論すること自体がタブー視される傾向にあるが、「マスクさえ着けていれば安全」という考えが行き過ぎると、返って被害が大きくなる可能性が高くなる。
大の大人が、マスクを着けることによる功罪(様々な副作用)を子供に教えなければいけないのだが、そんな当たり前のこともできない歪んだ同調圧力社会が悲劇を生んでしまったと言える。
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