2020年05月07日

新型コロナウイルスの常識破壊【死生観のパラダイムシフト】


■戦争が起こらなくても多くの死者が出る時代

 「憲法9条があれば戦争は起こらない」というのは、言葉を変えると「戦争が起こらなければ誰も死なない」とイコールの関係にあるのだと思う。
 しかし、新型コロナウイルスとの戦いは「戦争」とも言われており、実際に本物の戦争が起こらずとも多くの死者が出ている。

 この状態は、戦後これまで、まともな死生観を持たずに生きてこれた多くの日本人にとっては非常にショッキングなことでもあり、これまで信じ込んできた常識を根底から覆されるほどの衝撃を受けている状態とも言える。

 左派は戦争が起こらなくても、戦争と同様の結果が生まれる事態に遭遇し、金縛りになり声が出ずにもがいている状態。これは右派にしても同様で、コロナ戦争から逃げようが立ち向かおうが、どちらにしても死者が出るという未だ経験したことのない状態に追い込まれ、右往左往して二進も三進もいかなくなっている状態。左派・右派ともに、これまで、なあなあでやってこれた思考停止状態が否応無く暴露されてしまった格好とも言える。

■「国民総左翼化」が招いた悲劇

 コロナウイルスと戦っても死者が出る、コロナウイルスから逃げても死者が出る。人間が生きていく上で、「死」というものは避け難い代物であることを自らの死が訪れるまで深く考えずに生きてこれた戦後のお気楽ムードの清算を余儀無くされている状態、それが新型コロナウイルスによって我々に突き付けられたリアルな現実ではないだろうか。

 一方で、ある程度の死生観を持って生きてきた欧米の人々は、コロナ問題でも、「死」を受け入れる方向に考えをチェンジしてきている。
 病気によって一部の人々が亡くなることと、経済が崩壊して全ての人々が死に直面することを秤にかけ、被害が少ない方を躊躇なく選択することができる。その柔軟な姿勢こそが死生観を受け入れているという証左でもある。

 しかし、日本の場合は、戦後、「死」という概念から逃げることが許されてきた世界でも稀にみる幸運な国であったので、政府はコロナ問題でも優柔不断な態度が目立ち、ズルズルと先送りする戦法を採っている。
 国民の側も、まともな死生観を持つことを考えてこなかったため、死と隣り合わせの選択はなかなかできないという状態に陥っている。そういう意味では戦後の「国民総左翼化」が招いた悲劇とも言える。

 最も被害が少ないとも言える国が最も判断が有耶無耶で遅れているというような状態。これがもし日本が最も被害が多い国であったとすれば、日本はどんな対応を取っていたのだろうか?と考えると空恐ろしいものがある。

■「コロナの時代の新たな日常」とは?

 しかしながら、この問題からは誰も逃げることが許されない。いくらお金を持っている人でも世界中のどこにも逃げ場がない。それこそ宇宙にでも移住しなければ逃げれないという意味で、我々は「鳥かごの中の小鳥」になってしまった。あるいは、コロナウイルスに生殺与奪の権を握られているという意味で「まな板の上の鯉」になってしまったとも言えるだろうか。

 安倍総理が述べた「コロナの時代の新たな日常」とは、具体的に何を意味しているのかは不明だが、安倍総理の意思に関係なく、これまでとは全く異なる日常を意味しているのだろう。
 中国を中心に回る経済から脱却した日常もその1つかもしれないが、死のリスクが可視化した疑似戦時経済における新たな日常の構築も必要なのかもしれない。

 「戦争」という人と人との殺し合いが起こらなくとも、人間は常に「死」と隣り合わせに生きている存在であること。そういう当たり前の冷厳な事実を受け入れた上での日常を構築しなければならない。

 新型コロナウイルスというものは、これまでの安穏とした常識が全く通用しない時代に突入したことを告げ知らすラッパの役目を果たしているのかもしれない。特に日本人は、日常生活における死生観のパラダイムシフトを突き付けてられている状態だとも言える。
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posted by 自由人 at 22:58 | Comment(0) | コロナ問題
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