2019年10月21日

「教師いじめ事件」カレー禁止が意味するもの


■人間ではなくアイテムが主犯になる国

 先々週のブログ記事で取り上げた神戸の「教師いじめ事件」は、当初、一過性の地方事件で終わると思われたが、加害者がスマホで撮影した実際のいじめ画像が出回ってしまったことで、火に油を注ぐ形になり瞬く間に全国ニュースになってしまったようだ。

 日本では、何か社会的な事件が起こる度に、その場限りの場当たり的な対症療法が講じられる向きがある。

 例えば、通り魔がナイフで人を殺傷する事件が起これば、ナイフの所持が禁止される。これなどは、まるで「人を刺した犯人は人間ではなくナイフだ!」と言わんばかりだが、今回の教師いじめ事件でも、同じような対象療法が講じられた。
 教師いじめにカレーが使用されたので、カレーを給食メニューから外すという、まるで「いじめを起こした犯人はカレーだ!」と言わんばかりの信じ難い対症療法が採られた。
 
 もしかすると今回も「カレー禁止は当然の処置だ」と言うような言論人が出てくるかと思われたが、さすがに無理があると判断したのか、給食のカレー禁止を決定した教育委員会が批判の矢面に立たされている。

■教育委員会が真に恐れているものとは?

 しかし、ここで考えなければならないことは、「教育委員会が恐れているものは何なのか?」ということである。

 「生徒達が給食のカレーを見てショックを受ける(いじめを思い出す)」というような意見もあるようだが、普通に考えると、生徒達が給食のカレーを用いて、面白半分にいじめ行為を真似するという危惧があるのだろうと思う。

 もし、生徒達が教師の真似をして、本当にいじめ事件を起こしてしまった場合、現状の教育体制では、教師がいじめを止めることができない。なんせ、教師が生徒に平手やゲンコツでもしようものなら、体罰(暴力)事件として訴えられかねない。そんな状態では、教師は口頭で注意するしか方法がない。しかし、口で言って止めるような生徒なら、初めからいじめ行為など行わないだろう。

 それで結局、いじめを見て見ぬ振りすることになり、実際に生徒によるカレーいじめは、ほぼ間違いなく発生することになる。
 それがいじめと呼べるものでなかったとしても、表沙汰になると困るのは教育委員会だ。教師によるカレーいじめ事件を校長が隠蔽していたことが発覚し、今度は生徒によるカレーいじめ事件が報道されてしまえば、教育委員会も一蓮托生で、もはや立つ瀬が無くなってしまう。

 給食メニューからカレーを排除したということは、これまで「いじめは無い」と言い張ってきた教育委員会自体が、いじめは起こると信じていることを意味している。カレーそのものが命取りになりかねないという恐れを抱いているからこその「カレー禁止」だったと言える。

■「いじめが有る」という不都合な真実

 こんな話を書くと、なにか悪い冗談のように聞こえるかもしれないが、その冗談のようなことが現実に目の前で起こっているのだから仕方がない。教育者がこんな調子では、いつまで経っても、学校におけるいじめは無くなることはないだろう。

 今日もまた、千葉県の小中学校でいじめが(教育委員会によって)隠蔽されていたという悪い冗談のような報道があったばかりだが、このような問題が後を絶たないのは、偏に、いじめを無くすことを真剣に考えてこなかった結果(=自業自得)だと言える。

 理想主義に基づく教育現場で、いじめが有るという不都合な真実を認めたくないため、常に場当たり的な対症療法で言葉を濁し、臭いものには蓋をし続けてきた偽善的な公教育現場。
 我々が現在、目にしている醜態は、その膿みが表面化した姿なのかもしれない。

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posted by 自由人 at 22:48 | Comment(0) | 社会問題
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