2021年07月21日

「ワクチン接種は個人の自由」を反故にするマクロン大統領


■「ワクチン義務化」と「ワクチン禁止令」

 世界中で「ワクチン接種は個人の自由」と謳われている最中、フランスでは、ワクチン接種を義務化するような法案が可決された。この決定を受けて、フランス国民は「国家による著しい自由の侵害だ」として、大きな騒ぎとなり大々的な反対デモ等が行われている。

 一例を挙げると、この法案では、医療関係者がワクチン接種を拒否した場合、病院への出勤を禁じて解雇することが可能になるらしい。

 「ワクチン接種は個人の自由」と言っておきながら、事実上、国家によるワクチンの強制とも受け取れるような状況となっている。おまけに、これまで無料だったPCR検査も有料化されるらしく、まるでどこかの独裁国家のような様相を呈しているが、ある意味、隠れ社会主義国家のフランスらしい法案だとも言える。

 一方で、日本では、大手住宅メーカー タマホームの社長が社内で“ワクチン禁止令”なるものを出していたことを文春が報道し、物議を醸している。

 タマホームの玉木社長は「世の中がなんと言おうとも、ワクチン接種に反対です!」と述べ、「ワクチンを接種した場合は無期限の自宅待機」と述べていたと報道されている。

 文春の記事は読んでみたが、小さな記事だったので具体的な真偽のほどは分からないものの、おそらく、ワクチン接種は危険だという義憤に駆られた行動だったのだろうと思う。危険なワクチンを全社員が接種してしまうと、多くの社員が健康を害して、将来的に会社が潰れかねないという危惧もあったのかもしれない。

 しかし、全社員に強制するようなことをしてしまったので週刊誌の格好のネタになってしまったというところだろうか。

■「ワクチン接種の強制」vs「ワクチン非接種の強制」

 「ワクチン接種の強制」と「ワクチン非接種の強制」、どちらも強制であることに変わりないが、フランスのマクロン大統領と、タマホームの玉木社長は、全く真逆のことを言っていることになる。

 マクロン大統領「ワクチンを接種しなければ自由を与えない

 玉木社長「ワクチンを接種すれば自由を与えない

 一見すると同じように見えるが、「新しい生活様式に変えよ」と言うマクロンは「革新派」であり、「これまでの生活様式を変えるな」と言う玉木社長は「保守派」だと言えるだろうか。

 しかし、なぜか世間から激しくバッシングされているのは、玉木社長のみとなっているようだ。

 政府もマスコミも一般人も「ワクチン接種は個人の自由」と宣うのであれば、マクロン大統領も玉木社長も同じ扱いになって然るべきはずだが、なぜかマクロン大統領に対しては素通り状態。これでは、明らかに言行不一致であり、中立性も公平性も全く無視されていると言える。

 「ワクチン非接種の強制」がおかしいと批判するのであれば、「ワクチン接種の強制」もおかしいと批判しなければ筋が通らない。

 こう言っても「ワクチン接種は絶対的な善」と思い込んでいる人には話が通じないかもしれないが、「ワクチン接種は個人の自由」であるなら、「ワクチン接種は絶対的な善」にはならないのである。

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posted by 自由人 at 23:47 | Comment(4) | コロナ問題
2021年07月16日

「潜在意識」と「バラード」の関係性


■名曲が「潜在意識」に及ぼす屈折した影響力

 よく「潜在意識には嘘が通用しない」と言われる。これがどういう意味かは知る人ぞ知る話であり、万人が理解できる話ではないのかもしれないが、ブログ読者の裾野を広げるという意味では、たまにはこういう風変わりな話も書いた方が良いのかもしれない。

 今回のお題は「潜在意識」と「バラード」の関係について。こんな話を書いている人は誰もいないかもしれないが、ここ何年かで気付いたことを素直に書いてみたいと思う。

 毎年、冬になると山下達郎の代表曲「クリスマス・イブ」が街中で流れる。私も学生時代、山下達郎のファンだったので、この曲の影響力はよく知っている。

 「きっと君は来ない、ひとりきりのクリスマス・イブ、Silent night, Holy night

 まさに芸術的なメロディに乗った曲であり、誰もが口遊みたくなった経験があるのではないかと思う。しかし、ここで問題として取り上げるのは、曲ではなく、そのセンチメンタルな言葉である。上記の言葉を心底良いなあと思い、何度も繰り返し口遊むようになった場合、その人物の潜在意識には、こういう風に伝わることになる。

 「恋人がいないひとりきりのクリスマス・イブは良いものだ

■「表面意識」と「潜在意識」のパラドックス

 表面的には、恋が始まる前段階の心境を切なく綴った歌詞であったとしても、潜在意識的には、その恋が実らないことが切なく素晴らしいことだというニュアンスで伝わることになる。

 解りやすく言うと、あなたの潜在意識下(本心)では、恋人が現れないことを暗に望んでいることになるということ。

 この表面意識と潜在意識のパラドックスを理解できる人が果たしてどれだけいるのか分からないが、誤解を恐れずに書かせていただいた。

 例えば、しみじみとした感傷的なバラード曲で人気を博していた有名な歌手が、そのバラード曲のような哀しい人生を実際に演じてしまったという例もあった。そのニュース報道を観て、バラード曲が潜在意識層にまで強烈に刷り込まれると、本当に現実化するのだな…と少し恐くなったことを覚えている。

 そんな法則性が有ることを露ほども知らずに悲劇の主人公を演じてしまった当の歌手には気の毒で申し訳ないが、こういったニュースも今回の考察を得る1つのヒントになってくれた。

 別にバラード自体を問題視するつもりも、危険だと言うつもりもないのだが、潜在意識に影響を与えるほどセンチメンタルな歌に心酔してしまうと、人生にまで影響を及ぼす可能性が有るということだけは心の片隅に置いておいても損はないと思う。



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posted by 自由人 at 23:07 | Comment(0) | コラム
2021年07月15日

「副作用」と「副反応」を使い分ける理由とは?


■「副反応」と「副作用」の違い

 これまでの医療の常識では、薬の「副作用」という言葉が広く一般的に使用されてきたはずが、なぜかコロナ禍の現在では、薬の「副反応」という言葉が使用されている。

 「副作用」と「副反応」の違いを調べてみると、以下のようになっている。

【副作用】
 その薬の目的とする作用(効果)に伴って起こる別の(有害な)作用。

【副反応】
 ワクチンの接種を受けた後に生じる、接種部位の腫れや発赤・発熱・発疹などの症状。

 この2つを比較すると、「副作用」にはこれといった期限が設けられていないが、「副反応」には期限が設けられていることが窺える。薬は「副作用」、ワクチンは「副反応」と分けていると考えられなくもないが、この説明文を素直に受け入れるなら、「副反応」とは、注射後、ごく短期間において現れる症状のことを意味していることが分かる。

 コロナワクチン接種において、「副作用」という言葉が禁句のような扱いになり、代わりに「副反応」という言葉が使用されるようになった理由とは何なのだろうか?

 穿った見方をすれば、長期間における「副作用」は考慮していませんということなのかもしれない。
 もし、ある人が、ワクチン接種の数ヶ月後に「副作用」が生じたとしても、「副反応」にしか言及していませんよということになるのかもしれない。

■ある病院の診察室での1シーン(フィクション)

 患者「ワクチン接種後には副反応は無かったんですが、半年してから副反応らしき症状が現れてきたのですが…」

 医者「我々は副反応について述べていただけで、副作用のことは述べていませんが」

 患者「えっ!? だってこれ、どう見てもワクチンの副反応だと思うんですが…」

 医者「いや、副反応というのは、お注射した直後の症状のことです。あなたのように半年も経過した後だと、ワクチンとの因果関係は証明の仕様がありませんから」

 患者「そんな無責任な…、私は至って普通の健康体ですよ、これってどう考えてもワクチンの副反応じゃないですか!」

 医者「先程も言いましたが、それは副反応ではなくて副作用です」

 患者「えっ!? 副反応も副作用も同じことでしょう?」

 医者「違います、それはあなたの誤解です。我々は副反応のことを説明していただけで、副作用という言葉は1度も使用していませんよ」

 患者「・・・・・」



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posted by 自由人 at 19:53 | Comment(0) | コロナ問題
2021年07月11日

マスメディアの存在価値とは?


■「真水」と「泥水」を分けるのは誰か?

 世の中に出回る「情報」というものをグラスの中に注ぎ込んだとすると、その情報は恰も「水」と「油」のように2つの層に分離されていくことになる。「水」と「油」では例えがややこしくなるので、「真水」と「泥水」に置き換えてみよう。

 グラスに注ぎ込んだ水は、徐々に「真水」と「泥水」の層に分かれていく。人間が飲めるのは「真水」の部分であり、「泥水」は捨て去る、それが一般的な人間が行う正しい選択というものだ。

 この「真水」と「泥水」を分けるのは、あくまでも個々人であって、マスメディアではない。神仏でも聖人でもないマスメディアがお節介にも「真水」と「泥水」を仕分けるようになると、人々には正しい情報が伝わらなくなる危険性がある。

 マスメディアが間違った判断をし、グラスの中に注ぎ込まれる水が「真水」ではなく「泥水」ばかりになった場合、人々は「真水」と「泥水」の区別が付かず、少し綺麗な「泥水」を「真水」と思って飲んでしまい健康を害することになるかもしれない。

 そういった悲劇を避けるためには、何が「真水」で何が「泥水」なのかを知ることが何よりも重要になってくる。しかし、「真水」と「泥水」の違いを教えることは難しい。未来が分からない無知な人間には「真水」と「泥水」の違いを前もって明確に区別することは至難の業であり、もし間違った判断をしてしまった場合、その行為自体が悪になってしまう。

■マスメディアの役割は全ての情報を加工することなく開示すること

 ゆえに、そういった間違いを避けるために本当に重要なことは、人間知で「真水」と「泥水」の違いを分けて教えることではなく、「真水」と「泥水」の両方を、隠すことなく見せることにある。
 正しいか間違っているか分からない様々な情報を余すことなく全て開示し、その膨大な情報の中から何が正しくて何が間違っているのかを各個人が考えて判断する。そうすることで、社会全体として、より良い集合知が形成されていく。それが情報化社会の唯一の利点だとも言える。

 しかし、マスメディアが、事前に「真水」と「泥水」を分けて、彼らが「真水」と思える情報のみを人々に伝えるようになると、人々は「真水」と「泥水」の違いを知らずに、考えることもなく、これは「真水」だと思って、どんな水でも飲み干すようになっていく。

 ここで起こる問題は、「泥水」を見たことがない人々は、「泥水」を「真水」と思って飲み干している可能性が出てくるということである。
 古今東西、独裁国家で起こった問題は、まさにこれであり、限られた情報しか与えられない人間は、何が正しくて何が間違っているのかが分からなくなっていく。

 世の中には「真水」しかないと思い込むようになると、「泥水」を「真水」と思って飲み込み、「真水」を知らないまま人生を終えることもある。まさに知らぬが仏。「真水」だと思って飲んでいた水は実は「泥水」だったという悲劇を終生演じることになってしまう。

 マスメディアの役割は、情報を精査することではなく、全ての情報を加工することなく開示することであり、それを放棄した場合、マスメディアの存在価値は失われる。

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posted by 自由人 at 18:47 | Comment(0) | コラム
2021年07月07日

コロナワクチン「有効率95%」の嘘


■「盲が盲の手を引く」コロナワクチン布教活動

 マスコミではコロナワクチンの効き目(有効率)は95%と謳っており、まるでワクチンを接種すれば100人中95人はコロナに罹らないというような印象を受ける。実際、そう思っている人も多いようで、私の周りでもそういう誤った情報を鵜呑みにしている人が多いことに気付かされる。

 そのせいか、コロナワクチンさえ接種すれば、もう安心だと本気で信じ込んでおり、他人にもワクチン接種を勧めている人がいる。誤解を恐れずに言えば、その光景はまるで、カルト教の信者が「この壷を購入すれば救われますよ」と言って勧誘しているかのようですらある。

 本当の救いを求めている無知な人間に対して、同じく無知な人間が誤った情報を広めてしまうことを「盲が盲の手を引く」と言う。当人はまさか自分が間違ったことを教えているとは夢にも思っておらず、ご満悦顔で布教活動を行っている。

 ワクチンの有効率というのは、本物のワクチンと偽物(プラセボ)のワクチンを何人かに接種し、両者の比較をすることで有効率を計算する。
 今回のファイザー社の試験の場合、接種した人数はそれぞれ以下のようになっている。

 ○本物のワクチン接種者 18,198人

 ●偽物のワクチン接種者 18,325人

 このうち、コロナ発症者は次のようになっている。

 ○本物のワクチン接種者 8人

 ●偽物のワクチン接種者 162人

■本当のコロナワクチン有効率は「1%以下」

 この結果だけを見ると、162人と8人では大きな違いがあるように見える。単純に162:8で比較すると、(162÷8=20.25)となるので、20倍以上の開きがあることになる。100÷20.25=4.9という数字が導き出されるため、確率的に(100ー4.9=)95.1%という数字が出てくることになる。

 しかし、これは発症者という「分子」を比較した確率であって、本当の有効率を示したものではない。
 本当の有効率を求めるためには、以下のように「分母」を計算に入れなければいけない。

 ○8人÷18,198人=0.0004→(0.04%

 ●162人÷18,325人=0.0088→(0.88%

 となるので、以下の計算で本当の有効率が求められる。

 0.88%ー0.04%=0.84%

 ワクチンを接種した場合の本当の有効率は0.84%、つまり、1%にも満たない。残念ながら、これが真実である。

 ワクチンを接種して他人に勧めている人は、実はこう言っていることになる。

 「ワクチンを接種すれば発症率が1%程度下がりますから安心ですよ。

 これでは、果汁1%のジュースを果汁100%と偽っているようなものである。

(注意)本稿はワクチン接種における有効率を述べたものであり、ワクチンの副作用等は考慮していません。

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posted by 自由人 at 19:56 | コロナ問題