■「溺れる者は藁をも掴む」が意味するところ
「溺れる者は藁をも掴む」という有名なことわざがある。言わずと知れたことで、その意味するところは、「人は困窮して万策尽きた時に全く頼りにならない物にまで必死に縋ろうとする」。
現在は、まさにこのことわざを地でいく事態が我々の目の前で展開している。溺れてもいないのに、コロナの海で溺れているかに見える人が大勢おり、「ワクチン」「ワクチン」と言って、藁をも掴もうと必死になっている。
「溺れる者は藁をも掴む」というのは、結果的にその人物は助からずに溺れてしまうことを意味している。溺れている人物が助かるためには、自らが掴もうとしている物が「大木」であるのか、それとも「小枝」であるのか、あるいは文字通り「藁」であるのかを正しく見極めなければならないということを暗に教えている。
■コロナワクチンは、「大木」 or 「小枝」 or 「藁」 ?
では、現在、出回っているコロナワクチンは、大木・小枝・藁のどれに該当するのか? そこを正しく見極めなければいけない。
コロナワクチンを今すぐにでも打って欲しいと願う人達の目には、おそらくコロナワクチンがコロナの海で溺れている自らを絶対的に救ってくれる「大木」に映っているのだろうと思う。
なるほど、確かに溺れている者が目の前に大木を見つけたなら、必ず助かるだろうと思い、必死になってしがみついてしまうだろう。
しかし、この「大木」と見えし物は、ある人には「小枝」に見えたり、またある人には「藁」に見えたりしている。その認識の違いはどこにあるのかというと、どれだけ冷静になって目の前に存在している物の正体を知ろうとしているかの違いだと言える。あるいは、溺れる前にどれだけの前提知識を能動的に吸収していたかの違いだとも言える。
■「溺れない者は藁に縋らず自力で泳ぐ」
別にコロナの海で溺れているつもりのない私の目には、ワクチンは、せいぜい「小枝」か「藁」、もっと悪く言えば「蛇」にしか映らない。「小枝」や「藁」に掴まるぐらいなら自力で岸まで泳いだ方が良いと思っている。特効薬なら「大木」と判断して掴まるかもしれないが、残念ながら、ワクチンが「大木」だとは思えない。
これは噓偽りのない正直な気持ちでもある。「小枝」か「藁」、どちらに掴まっても、あまり意味が有るとは思えないので、全く眼中に入らない。
しかしながら、「ワクチンを打て」と言うつもりもないし、「ワクチンを打つな」と言うつもりもない。どちらにしても命に関わるような選択は、結局のところ最終的には、自分自身で判断するしかないということは苦い経験上、理解している。
どちらを選択するのも個人の自由だが、その判断の末に、どのような結果が生じたとしても、それは自己責任として受け入れるしかない。
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