■お金は「水」のようなもの
今更ながら、「個人の借金」「企業の借金」「国の借金」、この3つの借金を同じようなものだと思い込んでいる人は数多い。おそらく日本人の1億人以上(ほぼ全員)はそう思い込んでいるのではないかと思う。名付けて「一億総借金思考」。この誤った思い込みがどれだけ日本経済(国民の生活)を傷付けてきたかを考えると、如何ともしがたいものがある。
MMT理論を持ち出すまでもなく、お金というものは一種の“水”のようなものだと考えると解りやすいかもしれない。
例えば、百姓は毎年、稲を育てるために貯水池から水を放流する。その水の量は多過ぎても少な過ぎても具合が悪い。稲が育つためにちょうどよい水量を調整するのが百姓の重要な仕事になる。
あるいは、金魚を飼っている飼い主は、金魚がストレスを感じないよう伸び伸びと育つために水槽の水の量を調整する。水の量が少な過ぎると、金魚は充分に動くことができずに健康に育たない。
この「稲」や「金魚」を「人間」に置き換えてみると、「百姓」や「飼い主」は「政府」に該当する。
では、「人間」が健全に生活できるように「政府」が調整するものとは何だろうか? 無論、それが「お金の量」(厳密に言うと「お金の流通量」)である。
■「金魚の視点」と「飼い主の視点」
インフレ経済下では、市場に出回るお金の量が増え過ぎるため、政府はお金の流通量を下げるために緊縮財政や増税を行う。逆に、デフレ経済下では、市場に出回るお金の量が足りなくなるため、政府はお金の流通量を増やすために積極財政や減税を行う。
こんなことは誰でも解りそうなものだが、先に述べた通り、日本人の1億人以上は、この単純な経済常識を理解していない。
その証拠に、デフレ経済下で、緊縮財政や増税を行い、多くの国民がそれを支持している。
多くの国民がそう思う背景には、財源は国民(自分)が支払った税金だという思い込みに依っている。その姿は恰も、金魚が水を増やしてくれた飼い主に、増やした分の水を返さなければいけないと思い込んでいるようなものとも言える。
金魚から見れば、水は有料(有限)に見えるのかもしれないが、飼い主の視点で見れば、松下幸之助の水道哲学を持ち出すまでもなく、水は無料(無限)のようなものである。
国は、国民のように知恵を絞り汗水たらして働かなければお金を稼ぐことができないという不自由な存在ではなく、いつでもお金を創り出せる権能を持った存在でもある。
「稲」と「百姓」、「金魚」と「飼い主」の関係と同じように「個人」と「政府」は全く異なる存在であり、お金に対する認識も全く違うということを知る必要がある。
■お金の流通量を調整するのが政府の仕事
こう言うと、「それなら、政府はいくらお金を刷っても良いということになるではないか!」と反論する人がいるかもしれない。
その答えも、先に述べた通り、少な過ぎても多過ぎてもいけない。それを調整するのが政府の仕事だと述べた。その調整が上手くいっていれば、税収も自然に増えるようになる。
百姓は毎年、無事に稲が育つように水の分量を調整する。それでも、不可抗力(台風や日照り)で稲が育たなくなることもある。
金魚の飼い主は、金魚が健康に育つように毎日、水槽の水の量を見守り、水が少ないと思えば必要なだけの水を注ぐ。それでも、水温や酸素量の影響で金魚が死んでしまうこともある。
しかし、日本政府は、水の量が足りずに稲が枯れかけていても、水の量が足りずに金魚がアップアップしていても、それは「水が多過ぎるためだ」と決めつけ、水を注ぐことを否定する。稲や金魚の競争力が足りないからだと宣い、水の量を減らし(=消費増税)、水を獲得する競争を促進(=規制緩和・構造改革)することが正義だと思い込んでいる。
国民は、いい加減に、この愚かな事態に気付かなければいけない。多くの国民がこの単純な事実に気付かない限り、政治家は誤った考えを改めようとはしないし、改めることもできない。
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