■なぜ「自助」を否定するのか?
大方の予想通り、菅 義偉新総裁が誕生した。
総裁選前の「消費増税発言」も大きな騒ぎになりかけ、「今後10年間は上げない」と言い直したことで騒ぎが収まったようだが、今度は、菅氏の述べた「自助」という言葉が物議を醸しているようだ。
菅氏が語ったことは以下の通り。
>「私の目指す社会像は、自助・共助・公助、そして絆であります。まず自分でできることは自分でやってみる。そして地域や家族で共に助け合う。その上に立って、政府がセーフティネットでお守りをする。」
これを聞く限り、ごく当たり前のことを言っているようにしか思えないのだが、なぜか、「自助」という言葉に引っ掛かっている人が結構いるらしい。彼ら曰く「国が自助を国民に押し付けるのは間違いだ」ということらしい。
ひょっとすると、共産主義の思想には、基本的に「自助」という概念が無いということで、こういう発想になってしまうのかもしれないが、人間として生まれてこのかた、自助の精神を持たずに生きて来られた人がどれだけいるのかは甚だ疑問ではある。
■「自助の精神」を持たない子供はいない
例えば、小さい子供の頃には、自転車に乗ろうとしても上手く乗れない。自転車の初乗り時は、何度も何度も転びながらもチャレンジしたことは誰もが経験していることだと思う。
このチャレンジ精神こそが、他ならぬ「自助の精神」でもある。自転車に乗るのが恐いからと言って、端から誰かが運転する自転車の後部座席にタダ乗りすることが正しいなどと思うような子供はいないと思う。
しかし、身体的な都合で自転車に乗れないという人はいる。そういった人に対して、「自助」を強制することは間違いであり、誰か(健常者)が補助しなければならない。それが、「共助」であり、そういった助け合いのシステムが「公助」である。
以下の2つの言葉を聞いて、あなたはどう思うだろうか?
○「あなたは自転車を運転できるように努力してください。そうすれば、他人を乗せて運転することもできるようになります。」
●「あなたは自転車を運転できるようになる必要はありません。他人に乗せてもらえばいいのです。」
言うまでもなく、前者は「自助の精神」を述べており、後者は「自助の否定」を述べている。
どちらが正しいかは考えるまでもないと思う。自転車が運転できる人が誰もいなければ、乗せてもらうべき人もいなくなるのだから、後者の論理は破綻している。
まず始めに多くの人々の「自助」が有ってこそ「共助」が成り立つ。そして「自助」と「共助」のシステムが機能してこそ「公助」が存在しうる。
「自助」を否定して、永遠の「共助」と「公助」を求めることは不可能だ。それは、先程の簡単な例の通り、自転車を運転することを否定して、自転車に乗れるようになると言っているのと同じことだからだ。
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