2020年09月29日

新型コロナウイルスの常識破壊【「MMT」を実践する世界】


■「ベーシックインカム」や「MMT」が注目される理由

 最近、竹中平蔵氏の発言で「ベーシックインカム」というものが再び、話題になっている。
 昨年は、「MMT(現代貨幣理論)」というものが脚光を浴び、大きな話題となったが、これらが話題になる背景には、当然のことながら、新型コロナウイルスによる社会の変化と密接な関係がある。

 昨年、「MMT」が話題になった頃は、「トンデモ理論」というような批判が多く出たが、運命の悪戯か、時代の必然か、今年になって新型コロナウイルス問題が発生したことで、世界中の人々は「MMT」を無視できない事態になってしまった。

 新型コロナウイルスの蔓延によって、世界経済は一時的に仮死状態に陥り、各国政府は経済破綻を避けるためにお金を刷りまくり(実際に刷ったわけではない)、既に全世界で10兆ドル(1000兆円)を超える巨額の財政政策を行っている。

 この世界的な財政政策によって、多くの人々が一時的にでも経済的に救われたことは間違いない。もし、各国政府が「ハイパーインフレになる!」と言って何もせずに沈黙を守るだけであったなら、結果的に、コロナによる死亡者よりも経済的困窮による死亡者(または自殺者)の方が多くなっていたかもしれない。

 日本でもコロナ禍によって様々な補助金が交付され、多くの人々が救われているのではないかと思う。

 しかし、日本では今回のコロナ禍による政府の補助金等によって生じた赤字国債(国の借金)は早期に返却する必要が有るということで、既に増税の必要性を説いているようなせっかちな人も見受けられる。これらの人々は、おそらくガチガチの「MMT」否定論者…と言うよりも、単に現代貨幣について考えたことがない人なのだろうと思う。

■「MMT」は単なるバラマキ肯定理論ではない

 「MMT」のポイントの1つは、「悪性のインフレにならない限り、赤字国債はいくら刷っても構わない」という理論であり、世界各国は、まさに「MMT」に則って、コロナ禍補助金をバラまいているかに見える。
 コロナ禍によって需要が大幅に落ち込んでいる現状では、インフレになる心配はまず無い。生産工場などがストップして供給能力も落ちているとはいえ、戦争や災害で生産設備が破壊されたわけではないので、食料危機でも発生しない限り、悪性のインフレになる可能性も極めて低い。

 「MMT」のもう1つのポイントは、「自国通貨を発行できる限りは財政破綻はしない」というものなので、自国通貨を発行できるアメリカや日本が財政破綻する可能性は無いにしても、自国通貨を発行できないEU諸国等は財政破綻する可能性が有るということになる。

 そう考えると、ヨーロッパの国々が互恵関係を求めてホイホイとEUに加入したことは全く割に合わないことだったと言えるのかもしれない。金融先進国のイギリスがEUに加盟しても、自国通貨(ポンド)を捨てなかった背景には「MMT」が関係していたのかもしれない。

 「MMT」は最近になってポッと出てきた理論ではなく、ケインズの頃にも既に存在していた理論であり、その歴史は意外にも古い。ただ、昨年に「MMT」を言い出したのが、米国民主党と関係のある人物だったので、単なるバラマキ理論として敬遠されたのかしれない。

 また実際に、左派系の政治家が、無条件にお金を刷れる便利なものとして政治利用しているようなフシがあるので、いかがわしい理論だと誤解された向きもあるのかもしれない。

■「有限」から「無限」に変わった現代貨幣

 日本は、デフレ先進国なので、アベノミクスで数百兆円もの金融緩和を行ってもインフレにならなかった。皮肉にもアメリカでは、そのことが「MMT」の正しさの証明ともされている。

 しかし、アメリカの場合、日本のように緊縮財政で20年以上も酷いデフレが続いているというわけではないので、「MMT」を悪用した必要以上のバラマキを行うと、本当にインフレになってしまう可能性も考える必要がある。

 中国経済がいつまで経っても崩壊しないのは、意識してか意識せずしてか「MMT」を実践してきたからという説もある。

 現代貨幣というものは、金本位制が終わった時点で、有限なものから無限に供給できるものに変わってしまった。これは歴史的事実でもある。しかし、だからといって、無制限に供給し続けることは不可能。これは誰が考えても解ると思うし、「MMT」でも条件を定めている。

 「MMT」にしても「ベーシックインカム」にしても、大部分の人がまともに働いている社会であれば、補助的な制度として機能すると思われるが、誰もが「働かなくてもよい」というような誤解が生じると非常に危険な理論や制度になってしまう。
 誰も働かない社会というのは、需要(食欲)だけが有って供給(食物)の無いような社会だ。そんな社会では必然的に悪性のインフレ(食料の高騰)になるので継続は不可能ということになる。

 「AIが全ての供給を行ってくれる」という反論もあるかもしれないが、そんな社会は未だ訪れていない。

 理論自体は正しくとも、一歩間違うと人間の堕落に繋がるという意味での牽制は最低限必要だと思う。
 そういう意味で、ベーシックインカム制度は「MMT」を理解した上で、人々の働く意欲を無くさない程度に期間限定で実施することが望ましいと思う。



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posted by 自由人 at 20:42 | Comment(0) | 経済
2020年09月25日

新型コロナウイルスの常識破壊【無意味化した効率化】


■コロナ禍で「仕事を効率化せよ」は無意味

 菅新総理(菅内閣)の発言等を聞いていると、「改革」という言葉を前面に出しており、自民党と言うよりも、どこか日本維新の会風の発言に聞こえることがある。

 社会の効率化を目指すことは悪いことではないのだが、極限まで需要の落ち込んだ現在のコロナ禍による超デフレ社会において、果たして「改革」と称して効率化を目指すことは時期的に見て本当に正しい政策なのだろうか?と疑問に思うことがある。

 例えば、現在のコロナ禍では、仕事量が減少して残業せずに定時に帰れるようになった人は多いと思う。定時まで仕事が有る人はまだしも、時短や休業状態で労働時間が激減している人も多いのではないかと思う。
 そんな状況下に置かれている大部分の会社内で、部下に対して「仕事を効率化せよ」と言っている上司の姿を思い浮かべてみると、どこか可笑しくないだろうか?

 「仕事を効率化せよ」と言っても、肝心要の仕事自体が大幅に減少している時に、闇雲に「仕事を効率化せよ」と言われても、困ってしまうのではないだろうか?

 仕事が忙しくて大量に仕事が溜まっている場合、「仕事を効率化しなければならない」と思うことは理に適っている。しかし、仕事が減少して手持ち無沙汰な時に仕事を効率化しても、後に続く仕事が無いのであれば、あまり意味があるとは思えない。

■「効率化すれば景気が良くなる」条件とは?

 このコロナ禍で多忙になった業種(配送業など)であれば、効率化することによって新たな仕事が入ってくるような好循環が生まれるかもしれないが、コロナ禍で開店休業状態になった業種(飲食業など)の場合、効率化しても意味が無い。

 世界でただ1国だけ、20年以上にも及ぶ慢性的なデフレが続く日本では、長らく「効率化は良い結果を齎す」ということが信じられてきた。デフレであるのは非効率な社会のせいだと信じ込まれてきた。「効率化すれば仕事が増える」「効率化すれば景気が良くなる」という言葉を疑うことなく受け入れてきた。

 しかし、コロナ禍によって、「効率化すれば景気が良くなる」というような思い込みは実は正しくなかったということが判明した。より正確に言うなら、効率化が正しいとなるには、ある条件が必要だということが嫌という程に理解されるようになった。
 その条件とは何か? それは単純に、「景気が良い(仕事が滞り無く循環している)時」という条件だ。

■デフレでも「効率化」を目指す真面目な日本人気質

 昨年の今頃、飲食業界は空前の人手不足で従業員(アルバイト)の奪い合いのような様相を呈していたことは記憶に新しい。そういう事情から、昨年の飲食業界はどこもかしこも業務の効率化を進めることで仕事を回していた。

 しかし、今年は打って変わり、足りない人員を穴埋めするための学生アルバイトの募集すら全く無いような状態になっている。こんな状態で、効率化を進める意味があるのか?と問えば、誰もが「無意味だ」と思うのではないかと思う。

 仕事(需要)が有り余り、インフレ気味になっているような景気の良い時代であれば、非効率は悪であり、効率化は善になる。
 では逆に、仕事(需要)が減少し続け、デフレ気味になっているような景気の悪い時代であれば、どうなるだろうか?
 それでも、「非効率は悪であり、効率化は善になる」となるだろうか?

 日本の多くの人々は、実はそう思ってきたし、今もそう思っているのではないかと思う。

 しかし、コロナ禍によってデフレが底抜けしてしまったことで、「非効率は悪であり、効率化は善になる」という認識は、どこか間違っているのではないか?と気付き始めている。

 景気の良い時には「効率化」を目指し、景気が悪い時には「非効率化」を目指す。日本がデフレから脱却するために必要なことは、実はそんな受け入れがたい単純なことなのかもしれない。

 好況であろうと不況であろうと、「効率化」だけを目指す真面目な日本人の気質が災いして、デフレから脱却できないのだとすれば、なんとも皮肉な話だ。

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posted by 自由人 at 22:28 | Comment(0) | 経済
2020年09月20日

「働かざる者食うべからず」と「借金は返さなければならない」という言葉


■「働かざる者食うべからず」という言葉の意味

 新約聖書には以下のような言葉が書かれているらしい。

 「働こうとしない者は、食べることもしてはならない

 この言葉は、宗教的に怠惰な人の生活を戒めるための言葉だったのかもしれないが、20世紀になって、同じような言葉を使用する人物が現れた。それがソ連のレーニンだった。レーニンは共産党の機関誌「プラウダ」内で以下のように述べたとされる。

 「働かざるものは食うべからずは、社会主義の実践的戒律である

 この場合の「働かざるもの」は、聖書で言うところの「怠惰な人」という意味合いではなく、「働かない資本家」という意味合いで使用されたということになっている。

 共産主義社会では基本的に仕事を選べない。仕事は政府(?)が与えてくれるものなので、仕事は常に有り、その仕事を行わない者は共産主義者ではないという理屈になる。
 共産主義思想というのは、労働者の楽園思想というものを包含しており、労働者は労働によって望むだけの報酬を与えられるという考えが前提になっている。ゆえに、彼らにとっては「働かない者」は労働者ではないので、それが罪となり、「働かざるものは食うべからず」になってしまう。無論、「ノーメンクラトゥーラ」と呼ばれた特権階級はこの限りではない。

 日本で「働かざる者食うべからず」と聞くと、道徳・倫理的な言葉だと思われがちだが、レーニンが述べた通り、実は社会主義的な言葉という側面がある。

■「借金は返さなければならない」という言葉の意味

 ところで、「働かざる者食うべからず」は、財政再建肯定派の思想信条でもある。「借金は返さなければならない」という当たり前の倫理観が前提となっているので、この考えは広く日本に根付いているため、必然的に財政再建否定派は「怠け者」というレッテルを貼られることになる。

 しかし、「借金は返さなくてもいい」という言葉にも、2つの意味合いがある。本当に「借りたお金を返したくない」という怠け者の意見と、「国の借金を返す必要はない」という学術的な意見がある。

 よく言われるように「家庭における借金」と「国の借金」は明らかに違うものであり、国の借金は絶対的に返さなければならないという考えは少し間違っている。

 家庭での借金は、基本的に誰かが働いて得たお金を借りているということなので、それは人道的にも返さなければいけない。これは当たり前。しかし、国の借金というのは、誰かが働いて得たお金というわけではなく、単に増刷したお金(注意:印刷したとは限らない)であり、原価は微々たるものだ。

 誤解を恐れずに極論すれば、そのお金を将来世代から借りているということにして「借金は返さなければならない」ということになっているだけ。なぜそうなっているのかというと、そうでもしないと現代の貨幣が無から有を生み出す錬金術的側面を持っていることが表面化してしまうからかもしれない。

■「信用創造」の有無で変わるお金の常識

 お金そのものに金銀財宝と同じ価値があった時代と、そうでない時代(現代)では、お金の本質が変わってくるため、お金の認識自体も改めなければいけない。

 個人が他人にお金を貸す場合、現物資産としての現金が無ければ貸すことはできない。あなたが友人に100万円を貸す場合、本当に100万円を持っていなければ貸すことができない。しかし、銀行がお金を貸す場合は、少し話が違ってくる。例えば、銀行の金庫に1億円しか無くても、2億円を貸すこともできる。この場合、本来、存在しないお金を貸しているのに、2億円+利子が銀行に返済されることになる。
 1億円しか無くても、2億円を貸して、2億円以上が返ってくる。これを「信用創造」と言うが、こういうことを個人が行えば架空のお金を貸したということで詐欺罪になる。しかし、銀行なら合法的に可能となる。

 ここで述べた「銀行」を「国」に置き換えても同じことが言える。

 人間としての生きる目的を失ったかのような怠惰な人の精神を鼓舞するという意味で「働かざる者食うべからず」と言うことは理解できるし、人間として借りたお金を返すのは当然だという意味で「借金は返さなければならない」と言うのもその通りだと思う。

 しかしながら、先述した通り、その前提自体が間違っていた場合、必ずしも、そういった戒めの言葉が正しいとは限らないのである。

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posted by 自由人 at 23:54 | Comment(0) | 経済
2020年09月18日

「電波利用料の値上げ」で「携帯電話料金は値下げ」されるのか?


■再燃した携帯電話料金の引き下げ案

 菅 義偉氏が総理になったことで、2年前にも騒がれた携帯電話料金の引き下げ案が再び検討されているらしい。
 総務大臣に任命された武田良太氏は携帯電話料金について「1割とかいう程度では改革にならない」 と述べ、携帯電話料金の値下げに並々ならぬ意欲を見せている。

 確か、2年前の携帯料金引き下げ案は、時期的にも消費増税のブーイングを収めるための折衷案、悪く言えば、ガス抜き案としての意味合いが強かったと記憶している。
 当時の菅氏の弁では「現在の携帯電話料金は4割下げる余地がある」という触れ込みだったので、携帯各社は実際に値下げを行った。本当にキッチリ4割値下げされたのかどうかは疑わしいが、「最大で4割安くした」ということにはなっている。

 いずれにしても、携帯電話料金の値下げは既に行われており、携帯解約料金も大幅に値下げされた。それでもまだ値下げが足りないということで、「値下げに応じない場合は電波利用料の値上げも検討する」という、ある意味、脅しとも受け取れるような発言もされている。

 この「電波利用料の値上げも検討する」という言葉を超訳すると以下のようになる。

 「携帯電話料金を下げない場合、安価で提供されている電波利用料を値上げして、あなた方の商売の利益率を引き下げますよ。安価な電波料金でこれまで通りの利益率を維持したいなら、素直に携帯電話料金を下げた方が無難ですよ。

■「大手キャリア」と「格安スマホ」の違いは保険の有無

 携帯各社にしてみれば「携帯電話料金」を下げても「電波利用料」が上がっても、どちらに転んでも利益率が下がるということで、心中穏やかではないと思われる。
 しかしながら、各携帯会社が支払っている電波利用料は、年間100〜200億円程度と言われているので、仮に電波利用料が2倍になったとしても、携帯電話料金を大幅に引き下げるよりもましということになってしまうかもしれない。
 そういう目算から、携帯各社が値下げに応じない場合も考えられるが、その場合はどうなるのだろうか? それでも無条件に電波利用料が値上げされるのであれば、携帯電話料金も便乗値上げになってしまうかもしれない。

 仮に政府のお達し通りに携帯の基本料金が値下げになったとしても、これまで不要だった各種サービス料金が値上げされることは容易に想像が付く。日本の携帯電話料金が諸外国よりも高い1つの理由は、携帯が故障した時などのトラブル相談費用等がほぼ無料(一種の保険料)というところにあるので、そういった無償サービスは削られ、携帯を修理する場合は、メンテナンス料金として別途請求されることになるのだろう。
 格安スマホ(MVNO)が安価であるのは、そういった至れり尽くせりのサービスが全く無く、スマホが壊れた時は自己責任(保険が無い)だからでもある。

■「携帯電話会社」よりも「NHK」に目を向けるべき

 しかし、政治家が「電波利用料」云々と言い出すなら、携帯電話会社よりも、むしろ、NHKの方に目を向けるべきだと思う。NHKが支払っている電波利用料は携帯電話会社よりもはるかに安く、年間25億円程度と言われている。

 料金が高いと思うなら格安スマホ(MVNO)に逃げ道が用意されている携帯電話料金よりも、受信料支払いの逃げ場がないNHKの受信料を値下げすることに注力していただいた方が、より多くの国民(特に若年者)に支持されるのではないかと思う。

 NHKに対しても同じようにこう言ってもらいたい。

 「値下げに応じない場合は電波利用料の値上げも検討する

 実際のところ、日本で総理大臣になったからといって、総理の裁量で「電波利用料」を簡単に上げ下げするほどの権限が有るとは思えないのだが、もし、それを可能にするほどの手段(権力)を持っておられるのであれば、是非、NHKの受信料の値下げも検討していただきたいと思う。



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posted by 自由人 at 22:43 | Comment(0) | 政治
2020年09月14日

自転車の初乗りで考える「自助・共助・公助」の関係性


■なぜ「自助」を否定するのか?

 大方の予想通り、菅 義偉新総裁が誕生した。

 総裁選前の「消費増税発言」も大きな騒ぎになりかけ、「今後10年間は上げない」と言い直したことで騒ぎが収まったようだが、今度は、菅氏の述べた「自助」という言葉が物議を醸しているようだ。

 菅氏が語ったことは以下の通り。

>「私の目指す社会像は、自助・共助・公助、そして絆であります。まず自分でできることは自分でやってみる。そして地域や家族で共に助け合う。その上に立って、政府がセーフティネットでお守りをする。

 これを聞く限り、ごく当たり前のことを言っているようにしか思えないのだが、なぜか、「自助」という言葉に引っ掛かっている人が結構いるらしい。彼ら曰く「国が自助を国民に押し付けるのは間違いだ」ということらしい。

 ひょっとすると、共産主義の思想には、基本的に「自助」という概念が無いということで、こういう発想になってしまうのかもしれないが、人間として生まれてこのかた、自助の精神を持たずに生きて来られた人がどれだけいるのかは甚だ疑問ではある。

■「自助の精神」を持たない子供はいない

 例えば、小さい子供の頃には、自転車に乗ろうとしても上手く乗れない。自転車の初乗り時は、何度も何度も転びながらもチャレンジしたことは誰もが経験していることだと思う。
 このチャレンジ精神こそが、他ならぬ「自助の精神」でもある。自転車に乗るのが恐いからと言って、端から誰かが運転する自転車の後部座席にタダ乗りすることが正しいなどと思うような子供はいないと思う。

 しかし、身体的な都合で自転車に乗れないという人はいる。そういった人に対して、「自助」を強制することは間違いであり、誰か(健常者)が補助しなければならない。それが、「共助」であり、そういった助け合いのシステムが「公助」である。

 以下の2つの言葉を聞いて、あなたはどう思うだろうか?

 ○「あなたは自転車を運転できるように努力してください。そうすれば、他人を乗せて運転することもできるようになります。

 ●「あなたは自転車を運転できるようになる必要はありません。他人に乗せてもらえばいいのです。

 言うまでもなく、前者は「自助の精神」を述べており、後者は「自助の否定」を述べている。

 どちらが正しいかは考えるまでもないと思う。自転車が運転できる人が誰もいなければ、乗せてもらうべき人もいなくなるのだから、後者の論理は破綻している。

 まず始めに多くの人々の「自助」が有ってこそ「共助」が成り立つ。そして「自助」と「共助」のシステムが機能してこそ「公助」が存在しうる。

 「自助」を否定して、永遠の「共助」と「公助」を求めることは不可能だ。それは、先程の簡単な例の通り、自転車を運転することを否定して、自転車に乗れるようになると言っているのと同じことだからだ。



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posted by 自由人 at 22:42 | Comment(0) | 政治