2020年05月30日

「第2のバフェット」が生まれる時代


■上昇相場に転じた株式市場

 一時、24000円から16000円台まで暴落した日経平均株価は、半値戻しを通過し、再び、22000円近くまで上昇してきた。
 一方で、NYダウも、30000ドル直前から18000ドル台まで暴落したが、こちらも半値戻しを通過して、再び25000ドルの大台を超えてきた。

NYDOW&NIKKEI20200529.png
(ヤフーファイナンスから転用)

 新型コロナウイルス問題によって、日米共に3割以上の大幅な調整が入ったことになるが、底値近辺では、多くの投資家(投機家)はパニックになり投げ売りを余儀無くされたのではないかと推察する。

 私自身も大きく急落する度にバ○になって買い下がってみたが、大底近辺では流石に買えなかった。“まだ下がるかもしれない”という恐怖を克服することは難しいということを改めて実感した。

 これが、何千万円、何億円と投資しているような人になると、暴落の恐怖に耐え切れず、損切りしてしまったという人は多いかもしれない。

 例えば、現物で1億円投資しているような人であれば、3割下がれば3000万円の含み損を抱えることになるので、そこからまだ下がり、4000万円…5000万円…と含み損が増えていく恐怖に平静心でいられる人はあまりいないかもしれない。

■ネット証券口座開設で「成功した人」と「失敗した人」

 今年の3月頃には、ネット証券の新規口座開設が殺到したそうだが、それには主に次の2種類の人がいたのではないかと思う。

 「株価が連日暴落しているので今が買いチャンスだ」と思った人

 「株価が連日暴落しているので今が売りチャンスだ」と思った人

 3月19日に16358円で株価が底打ちしたので、前者の判断は正しかったが、後者の判断は間違っていたことになる。

 新型コロナウイルス問題で金融恐慌が発生し、日経平均は12000円(つまり半値)になるとか、1万円以下になると予言しているようなエコノミストもいた。幸か不幸か、そこまでは下がらなかったが、3月にまだまだ下がると思い空売りを入れた人は大失敗したことになる。

 新型コロナウイルス問題が解決するまで株価は延々と下がると思っていた人も多かったのではないかと思うが、株価は景気と違ってファンダメンタル要素だけで動くものではなく、最終的には需給が決めるものなので、どこかで必ず反転する。
 日銀が日本株(TOPIX)を購入していなければ、15000円割れも充分に有り得たかもしれないが、最大購入金額を大幅に増額し「無制限に購入する」という買い支え姿勢が伝えられた(実際に大量に購入した)ことも手伝って株価は下げ止まった。

■世界のどこかで第2のバフェットが生まれる

 コロナ前の日銀の平均買い単価は、19000円台だったので、ナンピン買いすることによって、少し買い単価が下がったのではないかと思う。
 株価が日銀の平均買い単価以下になった時、「含み損」と「損失」の区別が付いていない政治家達は、「年金の運用資金がどうのこうの…」と批判していたが、今は買い単価も下がって利益が出ている状態だ。
 
 現在ただ今も世界中で新型コロナウイルスの感染者が増加中であるわけだから、新型コロナウイルスの感染者数や死亡者数だけで株価は決まらないということだけは判明したと思う。

 こういう時に株価の話をするのは不謹慎だと言われるかもしれない。しかし、むしろ、こういう不安定な時代だからこそ、株価の動向にも目を光らせるべき時だとも思う。
 現在は巣篭もりや自宅待機で実際に株式売買を行っている人も多いだろうし、特別定額給付金(10万円)で株式投資を始めるという人もいるのではないかと思う。

 今回の暴落劇で、著名な投資家のウォーレン・バフェット氏が手持ち株を損切りして大損したとも伝えられているが、世界のどこかで第2のバフェットが生まれたかもしれない。



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posted by 自由人 at 18:21 | Comment(0) | 株式投資
2020年05月27日

「誹謗中傷」規制で最も重要なこととは?


■「ブログは句読点のある落書き」という台詞

 先日、ウイルス感染の恐怖を描いた映画『コンテイジョン』を観てみた。現在の新型コロナウイルス問題を先取り(先撮り)しているような映画だったが、その中に以下のような台詞があった。

 「ブログは句読点のある落書きだ

 随分と辛辣な台詞だが、半分は当たっているのかもしれない。

 ネットの中には「正しい情報」と「間違った情報」がある。もっと細分化すれば、書く人が「正しいと思っている(間違った)情報」や「間違いだと思っている(正しい)情報」もある。
 逆の立場で言うと、読み手が「正しいと思っている(間違った)情報」や「間違いだと思っている(正しい)情報」もある。

 こうなると、何が正しくて、何が間違っているのか分からない。
 そんな混沌としたネット社会であるからこそ、お互いの思い込みの相違から誹謗中傷合戦となってしまうことがある。我こそは正しく、相手は間違っているという思い込みが強くなり過ぎることで、相手に対する誹謗中傷が始まる。

 「反アベ」という存在も、我こそが絶対的に正しく、アベは間違っているという思い込みから始まっている。無論、安倍総理にも間違いはいくらでもある。しかし、アベのやること為すこと全てが間違いだと言うのでは単なる誹謗中傷になってしまう。何が正しくて何が間違っているのかを追究する姿勢が端から無いのであれば、それは誹謗中傷にしか成り得ないからだ。

■学者も「正しい情報」を発信しているとは限らない

 「正しい情報」と「間違った情報」を見分けるためには、それなりの知性が必要になる。しかし、知識が豊富な人が「正しい情報」を発信しているとは限らず、知識が乏しい人が「間違った情報」を発信しているとも限らない。
 現在の新型コロナウイルス問題でも、一般人よりも専門知識を多く持っているはずの学者が必ずしも「正しい情報」を発信していると言えないことは、この短期間の間に如実に証明されたと言っても言い過ぎではないと思う。

 特に人類が未だ経験したことのないような新しい問題を扱った情報は、どう疑ってみても真実としか思えないものだけ信じる位がちょうどよいのかもしれない。世の中に出回っている情報の半分位は疑ってかかる位が無難ではある。
 そういう意味で言うなら、ブログに限らず、「間違った情報」が書かれているようなニュースやコラムは、句読点のある落書きだというのは当たっている。

 しかし、宗教や哲学の領域になってくると少し話は違ってくる。世の中には、どれだけ知性や理性を有していてもあまり役に立たない領域というものがある。
 特に観念の世界は、知識偏重に成り過ぎると、逆に全く解らなくなってしまう場合がある。むしろ、無学文盲の人の方が優れている場合もある。
 宗教や哲学などの観念的なものが対象となると、知性や理性よりも、感性や悟性というようなものが発達していなければ解らないという場合がある。それはちょうど、どれだけ知識が有っても、芸術を解しない人がいるのと同じようなものとも言える。

■「正しい情報」と「間違った情報」の精査の重要性

 政府は、ネット社会の誹謗中傷行為における規制を検討していると伝えられているが、これも何が「正しい情報」で、何が「間違った情報」であるかの判断ができなければ、危険な面もある。

 自分自身が理解できないことは全て「間違った情報」扱いになり、規制の対象になるというようなことになると間違った全体主義に陥ってしまう。

 また、少し言葉遣いの悪い正しい批判を「誹謗中傷」だと決め付けるようなことになると、ネット社会がより間違った社会にミスリードされる可能性もあるだろうし、逆に言葉遣いが丁寧な間違った批判でも「誹謗中傷には当たらない」ということで素通りとなれば、ネット社会は、ますますカオスな社会となってしまう危険性もある。

 重要なのは、「正しい情報」と「間違った情報」の精査であり、それができてこその規制である。


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posted by 自由人 at 20:01 | Comment(0) | 社会問題
2020年05月25日

新型コロナウイルスのような「SNS上の蝙蝠ウイルス」


■SNS上の新型コウモリウイルスの猛威

 女子プロレスラーの木村 花氏がSNS上での誹謗中傷が原因で死亡(おそらく自殺)するという事態となり、大きな騒ぎとなっている。

 特に現在は、自宅に巣篭もり、暇を持て余している芸能人が多いせいもあるのか、SNSを利用して政治的な意見を述べるような芸能人も多くなっており、余計に注目が集まっているようだ。

 SNS上で誹謗中傷していた当の本人達は、捜査の対象から逃れるためにアカウント自体を削除するなど火消しに躍起になっているらしい。好き勝手に言うだけ言っておいて、都合が悪くなると逃げる。このての輩はインターネットができるまでは表に出てこなかったが、誰もがネット上で意見を述べれるSNSの隆盛によって爆発的に増殖した。まるで、ネット界の新型コロナウイルスのように。

 暗闇に隠れて、日の当たる場所にいる攻撃相手を執拗に責め苛む。他人の不幸は密の味であるかのように、相手の苦しむ姿を想像して悦に入る。人の生き血を啜るかのような行為によって自らの英気を養うその姿は、まさに蝙蝠(コウモリ)そのものとも言える。

 新型コロナウイルスと同様に、その誹謗中傷者の毒牙にかかった人全員が死亡するわけではないが、ある条件が重なると人を死に追いやることに繋がる。誹謗中傷に対して強い免疫を持たない人がその毒牙に触れると精神が不安定になり、場合によっては死に至ってしまう。

■ネット情報は「玉石混淆」ではなく「玉石毒混淆」

 インターネットの中に出回っている情報は玉石混淆と言われるが、「玉」と「石」だけなら、さほど被害は生まれない。ではなぜ被害が生まれるのかと言うと、玉でも石でもないモノが混ざっているからである。それは、見た人の心に被害を齎すという意味で「」と言っても差し支えない。

 インターネットの中にある情報には、人を輝かせる宝石のような「」、人畜無害の「」、そして、人の精神にダメージを与える有害な「」が混ざっている。そういう意味では「玉石混淆」ではなく「玉石毒混淆」だと言える。
 そしてこの毒は、時にクラスター化し、人々の精神に悪影響を与える。その悪影響を受けた人は自らもゾンビの如く、面白可笑しく悪意の言葉を広げるようになっていく。まるで、いじめの拡散のように。
 その毒は、負の伝染力を持っているという意味で、ウイルスそのものであるとも言える。
 SNS上に飛び交っている毒を持った悪意の言葉の数々は、「蝙蝠ウイルス」と呼ぶに相応しい。

■蝙蝠ウイルスにおける「新たな日常」の必要性

 新型コロナウイルスの蔓延で、「新たな日常」という言葉が頻繁に使用されるようになった。これからは新型コロナウイルスとの共生が必要になるという意味で使用されている言葉でもあるが、この機会に、新型コロナウイルスだけでなく、SNS上の蝙蝠ウイルスに対しても正しい知識を身に付け、なるべく「毒」の部分に触れない新たなネット社会を構築していくべきかもしれない。

 世界はこれまで、ネット上の蝙蝠ウイルスに対しては何の防御策も講じてこなかった。蝙蝠ウイルスによって人の心が傷付こうが、人が死亡しようがお構い無しで放置し続けてきた。

 この機会に、蝙蝠ウイルスに対するワクチンの役割を果たすサービスの構築が望まれる。
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posted by 自由人 at 22:05 | Comment(0) | 社会問題
2020年05月23日

「ベーシックインカム幻想」を味わった会社員達


■半休業状態を続ける企業

 新型コロナウイルスの感染者数が大都市圏(東京・大阪)で1桁となり、日本に限って言えば、梅雨を前にして第1波は終息(収束)しそうな雲行きとなってきた。

 新型コロナウイルスの重篤患者はビタミンDの値が少なかったというような報告も出ているので、ビタミンDを作る日光(紫外線)が強くなってきたことにも少なからず原因があるのかもしれない。新型コロナウイルスは湿度にも弱いと伝えられているので、高温多湿の日本ではその点もプラスに働いたのかもしれない。

 関東の1都3県と北海道を除く42府県では「緊急事態宣言」も解除され、街中にも少しだけ人が戻ったそうだが、未だ自粛中であることには変わりなく、時短措置や休業措置を採っている企業も多い。現状、「雇用調整助成金」の特例措置が6月一杯までは継続されることになっているので、1ヶ月間の労働時間が通常の半分程度になっている企業も多い。6月中にどれだけ仕事量が元に戻るか様子を見ながら、このまま半休業状態を6月一杯まで続けるのだろうと思われる。

■毎日の決まった日常に疑問を抱くに至った人々

 多くの会社員は、この1、2ヶ月の間にこれまでの自らの労働観に疑問を抱かざるを得ない状態に置かれたのではないかと思う。毎日、毎日、決まった時間に起床し、満員電車に揺られて出社し、決まった時間まで働き、場合によっては残業して夜遅くに帰宅する。そういう自分では変えようにも変えることができなかった当然の日常ルーチンが、新型コロナウイルスによってアッサリと変えられてしまった。

 朝起きる時間が遅くなり、出社する時間も変化し、帰宅する時間も早くなった。おまけに休日日数も増えたという人も多い。会社自体が10日間休業とか半月休業となり、休んだ日の給料の8割(5分の4)を国が負担してくれる(大企業の場合は3分の2)。
 5日間休んでも4日間は国が代わりに給料を支払ってくれるという特例措置を利用することで、多くの会社員はこう思ったかもしれない。

 「仕事ってなんだったのだろうか?

 ある意味、夢から覚めたようなもので、毎日の決まった日常に疑問を抱くに至った人は案外多いのではないかと思う。
 この感覚は、ベーシックインカムが一時的に導入された感覚を擬似的に味わったようなものかもしれない。本来、自分自身が働くことによってしか得られなかった収入の一部を国が代わりに支払ってくれているわけだから、まさにベーシックインカムそのものとも言える。

 「AI時代にはベーシックインカムが必要」という声は多いが、この短期間の間に全国の会社員が味わったもの、その不思議な感覚は「ベーシックインカム幻想」だったと言えるのかもしれない。


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posted by 自由人 at 18:11 | Comment(0) | 経済
2020年05月21日

官僚が不祥事を起こせば「内閣が悪い」の欺瞞


■「官僚の不祥事」で「内閣の総辞職」は必要か?

 東京高等検察庁の黒川検事長が緊急事態宣言が出ている最中に新聞記者宅で賭けマージャンを行っていたことが判明し、辞任の意向が伝えられている。

 一見すると人の良いオジサンという感じで憎めないキャラクター風の黒川氏だが、検事長という責任あるポストに就いている人物が「緊急事態宣言中に賭けマージャン」、確かにこの行為自体は批判されても仕方が無いとは言える。

 少し前に「緊急事態宣言中に風俗通い」で党を除籍処分になった政治家もいたが、公人は自ら範を示すためにも「緊急事態宣言中」は大人しくしていなければならない。確かにこれはその通りであり反論する余地がない。
 しかし、この一件で、「内閣は総辞職するべきだ」という意見が出ているのは疑問符が付いてしまう。

 なぜ、お役人の1人が不祥事を起こす度に、内閣全てが悪いという判断になってしまうのだろうか? 不祥事を起こした当の本人、所属する検察組織、または同じく賭けマージャンを行っていた新聞記者が真っ先に批判されるというなら理解もできるが、なぜ、毎度毎度、責任転嫁の如くに、いきなり「内閣の総辞職」となってしまうのだろうか?

 さらに不思議なのは、「政治家と検察はそれぞれ距離を置くべき」と言っておきながら、「検察が起こした不祥事は内閣(政治家)が責任を取るべきだ」と言う。これでは全く支離滅裂だ。距離を置くべき組織なら、責任の所在も距離を置くということにしなければ辻褄が合わないのではないだろうか。

■正義や公正さよりも欲得が支配する社会

 ある企業に所属する1人の従業員が不祥事を起こすと、「その企業自体を解体してしまえ」となるだろうか?
 ある学校の教師がいじめ問題を起こした時に「その学校を解体してしまえ」となっただろうか?
 先の風俗通いをしていた政治家が所属していた政党は「解体してしまえ」となってもよいということだろうか? そういう批判をかわすために除籍処分にしたというのだろうか?

 罪や不祥事を起こした当の本人ではなく、別のものに批判の矛先を持っていこうとする行為には“偽善臭”が感じられる。
 そう感じられるのは結局のところ、それらの行為は、正義や公正さを求めることを目的とした批判ではなく、他者を批判することで自らの立場を優位にしたいという、全く別の目的(自己の欲得)がベースになっているせいなのだろう。
 しかし、世間一般の良識ある人々は、そういう偽善臭を上手に嗅ぎ分ける嗅覚を有している。

 従業員が不祥事を起こせば「会社が悪い!」、教師が不祥事を起こせば「学校が悪い!」、官僚が不祥事を起こせば「内閣が悪い!」、こういう目くらましのような偽善行為に世間一般の人々は「またか…」と閉口しているのではないだろうか。

 検事長が緊急事態宣言中に賭けマージャンを行っていた行為よりも、そういう目くらましのような偽善行為が蔓延る社会にこそ、多くの国民は心底うんざりしているのではないかと思う。
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posted by 自由人 at 20:30 | Comment(0) | 政治