2019年10月30日

洗脳用語と化した「失言」という言葉


■「失言」とは「失礼な発言」のこと

 前回、政治家の「失言」についてのブログ記事を書いたばかりだが、現在の日本では、この「失言」という言葉が正しく理解されないまま独り歩きし、本来の意味合いからかけ離れた言葉として認識されているような気がする。
 「失言」かどうかという線引きが極めて曖昧になっており、今回の荻生田氏の発言でも、ある人は「失言だ」と言い、ある人は「失言ではない」と言っている。

 現在の日本で、「失言」と聞くと、「暴言」や「人間失格」というような、まるでタブーにでも触れたかのような絶対的な負のイメージを思い浮かべる人が多くなっているのではないかと思う。

 大辞林で「失言」という言葉を調べてみると、以下のように書かれている。

 「不都合なこと、間違ったことなどをうっかり言ってしまうこと。

 もっと解りやすく一言で言えば、「礼な発」というのが「失言」の意味だと言える。

 会社員であろうと、公務員であろうと、職場で「失礼な発言」をする人はどこにでもいる。ついウッカリ「失礼な発言」になってしまう人もいれば、元々、素の状態で「失礼な発言」をする人もいるし、酔っぱらってしまえば誰もが「失礼な発言」のオンパレードだ。

 だから、政治家が失言(失礼な発言)をしたとしても、それは個性の違いから発生する言葉遣いの違いでしかない場合がほとんどであり、本気で誰かを差別したり、馬鹿にしたりしているようなことは滅多にないと思う。

■「失言=悪」「失言=辞任」という洗脳

 左翼系のテレビ番組や新聞を熱心に読んでいる人の多くは、メディアが好んで使用する「失言」という言葉にすっかり乗せられてしまっており、いつの間にか、「失言=悪」「失言=辞任」という具合に洗脳されてしまっているとも言える。

 「一般人が失言することは許されるが、政治家が失言することは許されない」と言っている人もよく見かけるが、なぜそう言えるのだろうか?

 頭をゼロクリアして、もう1度、その言葉を聞いてみると、「あれっ?」と思う人もいるのではないかと思う。
 私人が失言しようと、公人が失言しようと、大きな違いはない。不完全な人間である限り、失言の1つや2つは誰でもするものであり、そのことが理解できていれば、大した問題ではないということが腑に落ちると思う。

■「失言の1つも許さない」メンタリティとは?

 「失言の1つも許さない」というメンタリティは、実は独裁国家のものである。その証拠に、中国や北朝鮮の報道番組などを観ていると、“笑い”という概念が微塵も無いことが分かると思う。いつ見ても、気難しい顔をしており、笑顔というものが全く見られない。
 なぜ笑いが無いのかと言えば、失敗(失言)すれば罰されるという強迫観念が有るためである。

 共産主義国家では、国から与えられた仕事で失敗すると、他の仕事を探せなくなるという息苦しさがある。しかし、資本主義国家では、自分で選んだ仕事で失敗しても、やり直しがきくという自由がある。仕事が嫌なら他の手段(例:投資など)で生活することもできる。もちろん、そこには失敗するリスクもあるが、全く逃げ場がない共産主義国家よりも、はるかに生き易い社会だと言える。だからこそ、失敗を笑いに変えることができる。

 1つの失敗(失言)が命取りになるというような恐怖で支配された国よりも、失敗(失言)を笑いに変えることができる国の方がよっぽど人間的だと言える。

 「失言は悪」「失言は辞任」と煽っている人々は、日本を、ニュース番組も笑顔で伝えることのできない独裁国家のような窮屈な国にしたいのだろうか?
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posted by 自由人 at 23:21 | Comment(0) | 社会問題
2019年10月29日

政治家の身の丈に合わない「言葉狩り」


■政治家の条件は「失言しないこと」か?

 萩生田文部科学相がテレビ番組内の発言で、「自分の身の丈に合わせて」と発言したことで物議を醸している。

 より正確に言えば、以下のような発言だったらしい。

>「裕福な家庭の子どもが(試験の)回数を受けてウォーミングアップできるというようなことがあるかもしれないが、自分の身の丈に合わせて2回をきちんと選んで頑張ってもらえれば…」

 萩生田氏はその後の釈明会見の場で、「自分の身の丈」という言葉を「自分の都合」と置き換えている。

 「裕福な家庭」という言葉を前置きしてしまったことにより、「自分の身の丈」という言葉が「=貧しい家庭」を意味することになってしまったので、萩生田氏の発言が言葉の選択ミスだったことは否めない。しかし、ただそれだけのことだと思う。

 この程度の失言で、「釈明だけでは済まない」などと憤る理由は何なのだろうか? 普通の良識ある人間であれば、釈明するまでもなく、ただの言葉の綾だと思うだけで、どうでもいいと思う人がほとんどだと思われる。

 しかし、日本ではいつから、政治家の条件というものが、「失言しないこと」になってしまったのだろうか? 一体、誰が一言も失言しない政治家を求めているというのだろうか?

 国民は、失言しない政治家のために税金を支払っているわけではない。失言をしなければいいということなら何もしゃべらなければいいわけで、そんな受け身な姿勢の政治家に何を期待すればいいというのだろうか?

■政治家は身の丈に合った発言をするべき

 「政治家は国民を映す鏡」とも言われるが、本来、政治家というものは、国民の見本となるべき存在であり、普通の人間ができないような大きな仕事をする能力や気概があるからこそ、その期待から国民は税金を支払っているのである。言わば、政治家に対する投資のようなものだ。
 その政治家のやっていることが、小学生にでもできるような言葉狩りでは、税金の無駄遣いとしか思えない。

 小学生が学級会議で挙手して、
 「先生、萩生田君が「身の丈」という言葉を使って貧乏な人を差別しました

 ちょうどこんな感じかもしれないが、こんな批判を聞いても、まともな教師なら理由を聞くだけで怒らないだろう。こんな発言に本気になって目くじらを立てて「謝るだけでは許さない。停学だ!、退学だ!」と言う教師がいれば、それこそ問題かもしれない。
 ところが、そんな教師が現実に存在している。どこに? 野党の中に。

 彼らこそ、小学生よりも遥かに高い政治家としての己の身の丈を自覚し、大人の発言を心掛けるべきである。
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posted by 自由人 at 19:39 | Comment(0) | 政治
2019年10月23日

超法規的な「自然災害国家補償政策」


■台風19号による保険請求額は1兆円超

 台風19号が直撃すれば、被害総額は100兆円以上になるというような事前予想も飛び交っていたが、実際のところは数千億円規模、保険請求額に至っては1兆円を超えるというような推計も出ているようだ。

 しかし、自然災害による全国単位の家屋の被害等を全て保険で賄うというのは無理があるような気がする。毎年のように今回のような台風が来れば、保険会社は全く割に合わず、保険料も値上げせざるを得ないような悪循環に陥る可能性もある。
 こういう大規模な自然災害の補償は、ある程度は国がするべきだと思う。

 こう言うと、「なんでもかんでも国が面倒をみるべきではない」とか「バラマキすれば良いというわけではない」という反論をいただきそうだが、バラマキと言っても、いろいろな方法がある。
 無意味なバラマキなら私も反対の立場だが、消失した資産を補填するためのバラマキなら、むしろ肯定したい。

 こう言うと、「税金の無駄遣いだ!」と言う人がいるかもしれない。しかし、ここで述べているバラマキは税金を使用しない。
 ではどうやって資金を作るのかというと、お金を刷るだけ。ただし、それを国の借金として計上してはいけない。超法規的にお金を追加刷りして損失補填のために配るということ。

 こう言うと、「そんな馬鹿なことができるわけがないではないか!」と言う人もいるかもしれない。

 その「そんな馬鹿なこと」という言葉には、「お金を無造作に刷れば、市場に悪影響を与える」という意味が込められているのだろうと思う。

 しかし、災害によって消失した資産を補填するために、その資産分のお金を刷っても、市場にも経済にも悪影響は及ぼさない。むしろ、お金を刷らない方が市場にも経済にも悪影響を及ぼすことになる。なぜなら、失われた資産を放置したままでは、市場に出回っている総資産が減少してしまうことになるからだ。

■100万円をマッチで火をつけて燃やしてしまったら?

 こう言っても、「何を言っているのか解らない」という人がいるかもしれないので、簡単な例え話を書いてみようと思う。

 例えば、あなたがヘソクリしている100万円の束をマッチで火をつけて燃やしてしまったとしよう。
 その場合、銀行に行って「お金を燃やしてしまったので、お金を返してください」と言っても、「無理です」と追い出されることになる。

 では、もし、その消失現場の証拠映像をスマホで撮影していた場合はどうだろう?
 その場合も、法律的には「無理です」ということになるだろう。

 しかし、資金をどれだけ消失したかということが明確に判っているのであれば、その分を追加刷りしても、世の中に出回っているお金の量が増えるわけではない。せいぜい、紙代とインク代と印刷の人件費がかかるだけで、市場には何の影響も発生しない。元々、その場に存在したお金を手品の如く再現させるだけだからだ。

 同じように、自然災害で消失した資産が明確に数値化できるのであれば、その消失分のお金を刷って補填しても何の問題も発生しない。
 その追加刷りしたお金を国の借金としてカウントするから、問題が発生するのである。

 もちろん、ここで書いたことは、あくまでも思考実験であり、現在の法律上ではできない相談だと思う。
 しかし、理屈の上では可能なことであり、被災者を経済的に救うことができるし、国の借金にもならない、そして、失われた資産が元に戻り、再建工事等の経済活動も躊躇することなく行われるので景気も良くなる。まさに「災い転じて福と為す政策」と成り得る。

【追記】2019.10.24

(BLOGOS転載記事のコメントに対する返答になります)


>お金というものの価値の代替え手段と,現物の消失の違いが分かっていない.

 お金を代替え手段(経済活動)で失った場合と、消失した場合の違いを書いているのですが…。


>それにお札を燃やしても灰が残っていて、形が崩れていなかったら引き換えてもらえるしね。

 お札が灰になっても形が崩れていなければ交換してもらえることの意味を、自然災害に置き換えて書いているのですが…。


>最近、こういうバ〇丸出しのブログが多いよねえ。
view稼ぎが目的(=お金)の兎に角クリック(表示)してくださいってブログ

 view稼ぎ?? BLOGOSに転載された記事のview(クリック)がいくら増えたところで、私には1円も入ってきませんので、見当違いもいいところです。


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posted by 自由人 at 22:28 | Comment(1) | 経済
2019年10月21日

「教師いじめ事件」カレー禁止が意味するもの


■人間ではなくアイテムが主犯になる国

 先々週のブログ記事で取り上げた神戸の「教師いじめ事件」は、当初、一過性の地方事件で終わると思われたが、加害者がスマホで撮影した実際のいじめ画像が出回ってしまったことで、火に油を注ぐ形になり瞬く間に全国ニュースになってしまったようだ。

 日本では、何か社会的な事件が起こる度に、その場限りの場当たり的な対症療法が講じられる向きがある。

 例えば、通り魔がナイフで人を殺傷する事件が起これば、ナイフの所持が禁止される。これなどは、まるで「人を刺した犯人は人間ではなくナイフだ!」と言わんばかりだが、今回の教師いじめ事件でも、同じような対象療法が講じられた。
 教師いじめにカレーが使用されたので、カレーを給食メニューから外すという、まるで「いじめを起こした犯人はカレーだ!」と言わんばかりの信じ難い対症療法が採られた。
 
 もしかすると今回も「カレー禁止は当然の処置だ」と言うような言論人が出てくるかと思われたが、さすがに無理があると判断したのか、給食のカレー禁止を決定した教育委員会が批判の矢面に立たされている。

■教育委員会が真に恐れているものとは?

 しかし、ここで考えなければならないことは、「教育委員会が恐れているものは何なのか?」ということである。

 「生徒達が給食のカレーを見てショックを受ける(いじめを思い出す)」というような意見もあるようだが、普通に考えると、生徒達が給食のカレーを用いて、面白半分にいじめ行為を真似するという危惧があるのだろうと思う。

 もし、生徒達が教師の真似をして、本当にいじめ事件を起こしてしまった場合、現状の教育体制では、教師がいじめを止めることができない。なんせ、教師が生徒に平手やゲンコツでもしようものなら、体罰(暴力)事件として訴えられかねない。そんな状態では、教師は口頭で注意するしか方法がない。しかし、口で言って止めるような生徒なら、初めからいじめ行為など行わないだろう。

 それで結局、いじめを見て見ぬ振りすることになり、実際に生徒によるカレーいじめは、ほぼ間違いなく発生することになる。
 それがいじめと呼べるものでなかったとしても、表沙汰になると困るのは教育委員会だ。教師によるカレーいじめ事件を校長が隠蔽していたことが発覚し、今度は生徒によるカレーいじめ事件が報道されてしまえば、教育委員会も一蓮托生で、もはや立つ瀬が無くなってしまう。

 給食メニューからカレーを排除したということは、これまで「いじめは無い」と言い張ってきた教育委員会自体が、いじめは起こると信じていることを意味している。カレーそのものが命取りになりかねないという恐れを抱いているからこその「カレー禁止」だったと言える。

■「いじめが有る」という不都合な真実

 こんな話を書くと、なにか悪い冗談のように聞こえるかもしれないが、その冗談のようなことが現実に目の前で起こっているのだから仕方がない。教育者がこんな調子では、いつまで経っても、学校におけるいじめは無くなることはないだろう。

 今日もまた、千葉県の小中学校でいじめが(教育委員会によって)隠蔽されていたという悪い冗談のような報道があったばかりだが、このような問題が後を絶たないのは、偏に、いじめを無くすことを真剣に考えてこなかった結果(=自業自得)だと言える。

 理想主義に基づく教育現場で、いじめが有るという不都合な真実を認めたくないため、常に場当たり的な対症療法で言葉を濁し、臭いものには蓋をし続けてきた偽善的な公教育現場。
 我々が現在、目にしている醜態は、その膿みが表面化した姿なのかもしれない。

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posted by 自由人 at 22:48 | Comment(0) | 社会問題
2019年10月18日

ユニクロ柳井氏発言で考える「日本人が劣化した証拠」とは?


■「韓国が日本を敵対視するのはおかしい」

 ユニクロの柳井会長の「日本は最悪、韓国が反日なのは解る」という発言が注目を集めている。柳井氏は雑誌のインタビューでこう述べられたらしい。

 >「日本が韓国を敵対視するのはおかしい

 柳井氏のこの発言は、韓国におけるユニクロ商品の不買運動を緩和するためのポジショントークなのかもしれないが、もし、政治・社会的な意味合いで述べておられるのだとすれば、あらぬ誤解を生む恐れがある。

 そもそも論において、「日本が韓国を敵対視している」という認識自体が的を射ているとは思えない。
 日本を敵対視しているのは韓国の方であり、韓国が国際的にまともな大人の対応をしてくれれば何のトラブルも発生していない。韓国が日本を敵対視し、日本はそんな大人げない韓国を無視しているというのが正しい認識だと思う。

 「日本が韓国を敵対視すればユニクロ商品は売れなくなる
 「韓国が日本を敵対視していてもユニクロ商品は売れる」
 「日本が韓国を敵対視しなければユニクロ商品は売れる」
 「韓国が日本を敵対視しなければユニクロ商品は売れる」

 韓国が日本を敵対視しようがしまいがユニクロ商品は売れるのに、日本が敵対視するという条件下でのみユニクロ商品が売れなくなる。
 この理屈からいくと、問題は日本ではなく韓国ということになる。

■韓国が日本に反感をもつようになった理由

 柳井氏は以下のようにも述べられている。

 >「日本が韓国に反感をもつようになったのは、日本人が劣化したという証拠だ

 この言葉を裏返せば、「日本人が劣化しなければ、日本は韓国に反感をもつことはなかった」ということになるが、はたしてこれは正しい認識だと言えるだろうか?

 戦後の日本人が戦前の日本人よりも劣化したという認識は、ある意味では正しいと思えるが、それは思想的に左寄り(反日)に傾き過ぎたという意味での劣化だと思う。

 しかしながら、日本人が左寄り(反日)に傾き過ぎたことで韓国に反感を持つようになったと言うのでは筋が通らない。むしろ、左寄り(反日)に傾き過ぎたことで韓国に対して甘くなり過ぎたというのが正しい認識だと思う。

 公職追放前の戦前のまともな保守論客が戦後にも多く存在し続けていれば、正しいものは正しい、間違っているものは間違っていると、もっと早くから言っていたはずであり、もしそうであるなら、韓国がここまで反日になることも無かっただろうし、日韓関係がここまでこじれることもなかっただろうと思う。

 だから正しくは、

 「韓国が日本に反感をもつようになったのは、日本人が劣化(反日化)したという証拠だ

 ということになる。
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posted by 自由人 at 19:53 | Comment(2) | 社会問題
2019年10月14日

政争の具に利用される「台風19号」


■台風19号が生んだ「言葉刈り」

 「史上最強の台風」と予報されていた台風19号が日本列島を通過した。現状、40名の被害者(死亡者)を出したと伝えられている。
 今回の台風19号は、かつて5000人近い死者を出した「伊勢湾台風」の再来と言われ、60年ぶりの大型台風になると予報されていたので、その事前の被害予想からすれば、被害は小さかったとは言える。
 しかし、その言い方を少し間違えたことで、またぞろ「言葉狩り」が発生してしまったようだ。

 自民党の二階幹事長が、今回の台風被害について以下のようにコメントしたことで批判されている。

 「予測に比べると、まずまずで収まったという感じだ。

 今回の二階氏の発言を正当なものだと擁護するつもりはないのだが、かといって、「人命軽視だ!」とする批判に素直に同意するのは、あまりにも短絡的過ぎるような気もする。

 二階氏の発言の是非はともかく、台風の被害規模が想定よりもずっと低かったことは事実である。その伝え方を間違ってしまったというのが二階氏のミスであり、人命を軽視しているかどうかまでは、この台詞だけでは判らない。

■台風19号を政争の具にする愚かさ

 台風が上陸する3日も前からあれだけ大々的に命の危機を訴えていたマスコミ報道を観ていた人なら、誰もが「思っていたより被害が少なかった」と思ったと思う。

 では、二階氏はどう言うべきだったのか?

 「予測に比べると、幸いにも被害は少なかったという感じだ。

 こう言えば良かったのだろうか? 答えはノーだろう。おそらく、こう言っていたとしても、「被害が少なかったとは何事か!」と批判されていたと思う。

 では、どう言えば、批判されずに済んだのか?

 「被害は予測以下でしたが、人命が失われたことには違いがありませんので残念です。

 無難にこう言っていれば、おそらくバッシングは免れたと思う。しかし、毎度毎度、ヘタなコメントをすることで政治家の命を擦り減らす危険性が伴うのであれば、もういっそのこと、ノーコメントにすればよいのではないかと思う。

 それでも、「人が死んでいるのにノーコメントとは何事か!」と批判されるのだろうけれど…。

 冗談は於いておいて、多くの被害者が出ている台風被害を政争の具にするのは止めていただきたい。言葉遣い云々よりも、他人の不幸を政争の具にすることの方が大きな問題であり、被害者に対する冒涜だと言える。
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posted by 自由人 at 16:06 | Comment(0) | 政治
2019年10月08日

「生徒間のいじめ」も「教師間のいじめ」も同じ扱いの教育現場


■漫画のような「教師いじめ」の発覚

 神戸市の公立小学校で教師による教師いじめが行われていたことが発覚し、巷では「前代未聞の事件」「教師にあるまじき事件」として騒がれている。

 30代の男性3人と40代の女性1人が、20代の男性1人をいじめていたらしく、スマホで撮影していたという動画が拡散されている。
 まるで漫画のような出来事だが、こういった事件の発覚を目の当たりにすると、漫画の世界だけでなく現実社会の人間も「いじめ」という行為そのものを無くすことができない業の深い生き物なのだということがよく分かる。

 「教育者とは思えない卑劣な行為」というような言葉も見かけたが、教師と言っても、ただ教職員試験をパスしただけの普通の人間に過ぎない。教師になるために聖職者としての儀式を通過するわけでもなく、一般の人間よりも倫理的・道徳的に優れている資格条件を有しているわけでもない。

 今回のいじめ動画を観る限りでは、教師と言うよりも精神年齢の低い子どもを観ているような錯覚を覚えた。あれでは性質(たち)の悪い中学生のいじめっこの姿そのものであり、まるで漫画の『怨み屋本舗』の世界そのまんまと言える。

■未成年と同じ扱いの加害者教師

 しかし疑問に思うのは、なぜ、いじめの被害者だけでなく、加害者の顔や名前まで隠されているのか?ということだ。
 普段、生徒間でいじめ行為があった場合、“未成年”という理由で顔も名前も公表しないことが習わしになっているが、今回の場合は、明らかに成人であり、況してや教師という責任ある立場にいる人間である。自らが犯した罪については責任を持って謝罪することが教職者としての常識ではないのだろうか? そんな覚悟も持たない人間になぜ教師が務まるのだろうか?

 警察官が暴力行為や痴漢行為を行えば、普通は実名で報道される。そんな警官を野放しにしては危険だからというのも1つの理由だ。同じように、いじめを諌めるべき教師がいじめ行為を行ったのであれば、実名報道するべきではないのだろうか? 今回の場合、冤罪である可能性も無いので尚更だ。
 それとも、未成年者と同じように「写真や名前を報道すると教師の将来に傷が付く可能性がある」とでも言うのだろうか?

■「いじめ」は有ってはならないという理想論

 戦後の公教育現場は「聖域」として扱われ、教師はその聖域における聖職者(労働者)という立場にあるとされる。そして、その聖域では「いじめ」というような悪の行為は有ってはならないということになり、皮肉にも、いじめは無くすものでなく、隠すものということが常態化してしまった。要するに、「聖域」における「いじめ」はタブーなのである。

 その証拠に、今回の教師によるいじめ行為も校長が教育委員会に報告していたらしいが、「(いじめ問題は)指導して収まった」と嘘を付いていたことが判明した。
 生徒間のいじめだけでなく、教師間のいじめも同じ扱い(隠蔽)なのであれば、年齢等は全く無関係であり、学校や教育委員会にとっては「いじめ」という行為そのものが有ってはならないものだと疑われても仕方がない。

 「学校」という名の聖域内で「いじめ」は有ってはならないというような、お花畑の理想論が根付き、生徒だけでなく教師にまで「いじめ」行為を為さしめる遠因となっているのだとすれば、その業(罪)はあまりにも深いと言わざるを得ない。
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posted by 自由人 at 20:03 | Comment(0) | 社会問題