2019年07月30日

NHKはリブートされるか?


■NHKリブートの実現性

 参議院選挙が行われる前、テレビ画面に「N国」という文字が出た時、会社の人からこう尋ねられた。

 「N国って何?

 世間の認識はこんなものなのかな…と思いつつ、それとなく「NHKは不用だと言っている党です」と応えた。
 つい最近まで「N国党」は、何かの冗談か、ただの泡沫政党としか思われていなかったのかもしれない。
 しかしながら、現在、その「NHKから国民を守る党」に注目が集っている。日本維新の会を除名された丸山穂高氏が入党を決意したかと思えば、今度は元みんなの党の代表であった渡辺喜美氏が共闘することが判明し、新たに「みんなの党」が結成されるらしい。その勢いに、ふと「梁山泊」という言葉が頭に浮かんだ。

 「自民党をぶっ壊す!」と言って人気を集めた小泉純一郎氏

 「大阪市(役所)をぶっ壊す!」と言って人気を集めた橋下 徹氏

そして、

 「NHKをぶっ壊す!」と言って人気を集めている立花孝志氏

 もちろん、実際にぶっ壊すわけではなくて、現状の時代遅れなシステムのみをリブートするという意味だろうけれど、誰にもできなかったNHKの改革(スクランブル放送化)を実現できるのであれば喜ばしい。

 ただ、なんでもかんでも「改革」「改革」と言って、無駄を省けば良しとする政策は、民主党の事業仕分け政策でも判明した通り、行き過ぎると逆に景気の悪化を招く危険性があるので、あくまでもNHK改革という目的のみに専念していただきたいと思う。

■戦後システムリブートの困難性

 しかし、国民のほぼ全員が不自然だと思っている現在のNHKの受信料システムを、国民の意向を全く考慮せずに頑として護り続けているNHKという組織は、誤解を恐れずに言えば、ある意味、現在の香港人が言うところの中国共産党のような存在だと言えるのかもしれない。
 全くレベルが違うとは言え、日本人にとってのNHKは、香港人にとっての中国共産党の如く、目の前に立ちはだかる融通の利かない巨大組織だと言えるのかもしれない。

 なぜ、公共放送局たるものが、そこまで融通の利かない硬直した独善的な組織に成り上がってしまったのかは諸説あるが、これも戦後の占領政策時から引き摺っているシステムの1つであることに違いはないと思う。

 その日本の戦後システムをほんの少しでも弄ろうとすると、どこからともなく逆風が吹き荒び、嵐のようなバッシングに遭遇する可能性があることは否定できない。
 戦後システムのリブートは総理大臣ですらなかなか実現できない大仕事であるので、はたして「NHKから国民を守る党」にどこまでの仕事(改革)ができるのかは未だ不明としか言い様がないが、この時代の民意というものを上手く味方に付けて、1つの目的を成し遂げていただきたいと思う。

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posted by 自由人 at 20:41 | Comment(0) | 政治
2019年07月29日

「情報弱者」という言葉の定義を考える


■「情報」に「強い・弱い」は妥当か?

 前回の記事で「情報弱者」についての考察を書いてみると、案の定、様々な反論を頂いた。
 「情報弱者」とはネット検索によって能動的に正しい情報を得ようとしない人のことを指すという反論が散見された。要するに、情報リテラシーの問題ということになるのだろうか。

 現状における「情報弱者」の定義はその通りなのだろうけれど、頭を1度ゼロクリアして「情報弱者」という言葉を考えてみると、少し疑問点が生じると思う。

 「情報弱者」とは、その言葉通り「情報に弱い者」という意味になるが、そもそも情報には2種類ある。それはもちろん、「正しい情報」と「間違った情報」のことだが、この言葉を補えば、以下の4つのパターンがあることになる。

 ●正しい情報に強い者
 ●正しい情報に弱い者
 ●間違った情報に強い者
 ●間違った情報に弱い者


 ここで少なからず違和感を感じるのは、情報に対して「強い」とか「弱い」という言葉を使用することは本当に正しい使い方か?ということである。
 本来であれば、情報に強いか弱いかではなく、情報識別力が高いか低いかと言った方がピッタリすると思う。

 当初、「情報弱者」とは、ネットで情報にアクセスできる人とできない人の差を指した言葉だったと思うが、いつの頃からか、その情報にアクセスできることを前提として、その情報が正しい情報か間違った情報かを分別できない人のことを「情報弱者」と呼ぶようになった。

 例えば、偏った新聞やテレビの報道をそのまま鵜呑みにしかできない層を「情報弱者」と呼ぶ向きがあるが、その場合は「情報識別力が低い人」と言うのが正しいと思う。思想的なものを含まないなら「情報リテラシーが低い人」と言い換えることも可能かもしれないが、「情報弱者」にも段階があり、その辺が曖昧になっているため、無闇矢鱈に「情弱」という言葉を使用するのは可笑しいという遠回しな皮肉を書いたつもりが、あらぬ誤解を招いてしまったらしい。

■「情報識別力」が「高い・低い」が正しい

 ある保守系の言論人の批判を書いたのも、普段、どれだけ情報の正しさを識別する能力を有している人物であろうと、識別するべき情報を精査せずに論評してしまうと、その人物はいとも容易く情報弱者(情報識別力が低い人)になってしまうという皮肉を書いたまでのことで、別に保守系の論客を否定しているわけではない。

 個人的には、情報識別力というのは、知識量とはあまり関係がないと思っている。たとえ1万冊の書物を読んだ人であっても、その人物が必ずしも情報識別力が高いとは限らないし、本をほとんど読まない人でも情報識別力が高い人は大勢いると思う。読書はその能力を高める役目を果たすツールには成り得ても、それが万人に適用できるわけでもない。

 情報識別力の高い人と情報識別力の低い人の違いは、結局のところ、物事の本質を見抜く鑑識眼の高い人と低い人の違いでしかないと思う。どれだけ高学歴であろうと、どれだけ知能指数が高かろうと、鑑識眼の高低とはあまり関係が無いと思う。現実を見ても、実際にそうなっていることは誰もが認めるところではないだろうか。

 情報識別力が高いというのは、直感が鋭いとか、洞察力が鋭いとか、そういう類いの能力の1つだと思う。如何に論理的であっても、その論理自体が嘘である場合は見抜けない人が出てくる。肝心なのはその論理の嘘まで見抜ける能力が有るかどうかが問われることになる。だからベクトル的には、能力が強い、能力が弱いではなく、能力が高い、能力が低いとした方が正しい使い方だと思う。

 つまり、本来の言葉の定義から外れて「情報弱者」という言葉自体が拡大解釈されて独り歩きしているということ。それが結論になる。
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posted by 自由人 at 00:09 | Comment(0) | コラム
2019年07月28日

現代における「無知の知」【全ての人間は「情報弱者」】


■曖昧な「情報弱者」という言葉

 現代では既に市民権を得た言葉に「情報弱者(情弱)」というものがある。誰でも無料で広範な知識が得られるネット情報社会になってから、頻繁に耳にするようになった言葉でもある。
 毎日のように、多くの人が、事ある度(自分より知識が無いと思う人を見つける度)に「情弱」という言葉をドヤ顔で語るシーンを目にするようになったが、「情報強者」と「情報弱者」との間にはたしてどれだけの差が有るのだろうか?

 ある特定の分野(例えば、コンピューター知識、医学知識)における個人の情報差は埋め難い程に開いているのかもしれないが、ジャンルを分けなければ総情報量には埋め難い程の開きは無いかもしれない。ネット情報社会以前に、これだけ膨大な知識が氾濫している人間社会で、全てのジャンルにおいて情報量が勝っている人など皆無に等しいと言える。

 例えば、会社の先輩と後輩を比べても、仕事の知識量は先輩の方が勝っている場合があったとしても、その他の趣味などの種々雑多な情報量を比べてみると、必ずしも年長者が勝っているとは言えない。ジャンルによっては、その関係性は全く逆の場合も有る。

 現代社会に溢れる膨大な知識の洪水の前には誰もが無力であり、誰もが情報弱者だと言える。現代における「情報強者」「情報弱者」とは、ある特定のジャンルに限って使用することが許される言葉でしかないのかもしれない。

■医療に限定した「情報強者」論

 現代は、専門の学者よりも知識を持った一般人が大勢いる時代とも言われている。先程述べた医学知識等についても医者よりも詳しい一般人もいる。(ここでいう「医学知識」とは専門の医療用語のことではなく病気を治す知識のこと)

 一口に医療と言っても内科・外科・整形外科・神経科・泌尿器科・耳鼻科等々、様々な区分け(ジャンル)があり、1人の医者が全ての知識を有しているわけではない。分野の違う医療知識はほとんど皆無という医者も大勢いる。その証拠に処方する薬の副作用がバッティングしても分からないというケース(所謂、ポリファーマシー※問題)も多々ある。
 実際に私の知人も、内科で処方された薬と神経科で処方された薬の相性が合わず思わぬ副作用が生じたケースがある。そういう場合は、薬の専門家である薬剤師にでも相談しなければ、副作用の原因が判らない。

※服用する薬剤が多いことで発生する薬物有害事象(副作用)

 全てのジャンルにおいて医学知識が勝っている万能の医者など存在しない。内科における「情報強者」、外科における「情報強者」がいたとしても、全ての医療分野における「情報強者」というのは存在しない。

■現代人にも当て嵌まる「無知の知」

 医療に限定した例え話を書いてみたが、人間社会における「情報強者」理論もこれと同じ理屈であり、特定の分野における「情報強者」は存在し得ても、全ての分野における「情報強者」は存在しない。

 より大きな視点で観れば、全ての人間は情報弱者でしかない。そのことを認識せず、無闇矢鱈に「情報弱者(情弱)」という言葉を用いて他人を批判することは、自らが本当の情報を知らないことをアピールしているようなものかもしれない。

 先日も、ある著名な保守系の言論人が、畑違いの医療の話を書いている本を読んでみたが、全く見当外れなことを書かれておりゲンナリしてしまった。参考資料を調べもせず(調べても解らない場合もある)、思い込みやイメージだけで自らの専門分野以外のことに口出しするとボロが出る典型を見た思いがした。

 ソクラテスが説いた「無知の知」とは現代におけるドヤ顔知識人にもピッタリと当て嵌まる言葉なのかもしれない。
 ソクラテス風に言うなら、自らが「情報強者」であると自惚れた時に、その人物は既に自らを「情報弱者」と認識している人以上に「無知」なのである。

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posted by 自由人 at 00:17 | Comment(0) | コラム
2019年07月25日

「参議院選挙」投票率50%未満が意味するもの


■自民党から逃げた票の受け皿の必要性

 参議院選挙期間中、人々の話題は専ら「京都アニメーション放火事件」と「吉本興業闇営業問題」の方に移り、その影響も手伝ってか、投票率は過去2番目に低い結果となったらしい(投票率は48.8%)。

 今回の参議院選挙では「れいわ新撰組」から当選者が出たことや「立憲民主党」が議席を伸ばす等のニュースが報道されていたが、その原因は結局のところ「消費増税」に反発する人々の票が自民党から逃げたことで、野党票が伸びたというだけのことなのだろうと思う。
 「NHKから国民を守る党」からも当選者が出たが、これも自民党ではNHKの改革は不可能ということで票が逃げた格好なのかもしれない。

 本来であれば、自民党から逃げた票の受け皿となって第1党になるような政党が出てこないことを嘆かなければならない。少し票を伸ばした程度のことで喜んでいること自体がオメデタイとも言える。

■二大政党制の一翼を担う条件

 しかしながら、自民党より左寄りの政党では対抗馬には成り得ない。自民党よりも思想的に右寄りの健全な政党でなければ、二大政党制にはならない。

 国政を任せるべき政治家の条件として最も重要なことは“国を良くしたい”という純粋な目的を持った愛国者でなければならない。
 経済政策的に左右に分かれるのは構わないが、「愛国者」と「非愛国者」というような思想的に分かれた二大政党制などは世界中どこの国にも存在しない。そんな国は世界中探しても日本しか見当たらない。国を良くすることよりも、他党(与党)を蹴落とすことが最終目標になっているような政党では二大政党制の一翼を担うことができないことは、よく考えれば誰にでも解ることだと思う。

■浮動票が動かない限り日本は変わらない

 しかし、投票率が有権者の半分にも満たないというのは、どうなのだろうか?

 例えば、現在の香港で中国共産党の政策に賛成か反対かというような選挙が行われれば、間違いなく、ほぼ全員が投票することになるだろう。自分達の生活、延いては命にまで関わってくるという逼迫感があれば、国民の義務以前に、個人の権利を主張することが当然の行為となるはずだ。

 ところが日本では、消費税が上がってもどうでもいいというような、ある意味、諦観のようなものさえ感じられる。
 あるいは、消費税が2%上がる程度なら何の問題もないという楽観主義のなせる業だろうか? そのくせ、老後の2000万円問題では、あれだけ大きな騒ぎになっていたわけだから、開いた口が塞がらない。

 今回の参議院選挙で判明したことは、毎度のことながら、50%を超える未投票の浮動票が動かない限り日本は変わらないということ、これに尽きると思う。
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posted by 自由人 at 21:15 | Comment(0) | 政治
2019年07月17日

ハリウッド化する『007』【ボンドウーマンの是非】


■女性のヒーロー「ボンドウーマン」

 イアン・フレミング原作のイギリスの国民的スパイ映画『007』シリーズは、今や誰もが知る世界に名だたるエンタメ映画として君臨している。
 最近では同じくイギリスの過激なスパイ映画『キングスマン』やトム・クルーズ主演のスパイ映画『M:I』シリーズに押され気味で少し人気に翳りが見えていたが、そんな中、「女性の007が誕生する」という衝撃的なニュースが伝えられた。


 衝撃的と言っても、次世代ボンドが女性になるというわけではなくて、おそらくは休暇中のボンドに変わって一時的に「007」の称号(殺しのライセンス)をQから与えられるというストーリーなのだろうと思う。
 しかしそれでも、個人的にはこのニュースは、あまり好意的には受け取っておらず、正直なところ、「またか…」と呟いてしまった。

 最近の映画『MIB』の主役も男性(ウィル・スミス)から女性(テッサ・トンプソン)に変わっていたが、一時的だとはいえ『007』の役を女性が演じるというのは随分と大きな賭けだなと思える。

 なんでも「ボンドガール」という呼び方は禁止になり、今作では「ワンダーウーマン」ならぬ「ボンドウーマン」と呼ばれるらしい。まるで、「女性が主役の時代の到来」と言わんばかりの触れ込みだが、男のロマンよりも女のロマンを前面に出して興行的に成功するのかは少々疑問でもある。


 数年前にもアメリカの人気テレビドラマ『24』の主人公が白人から黒人にバトンタッチしたことがあったが、残念ながらシーズン1で打ち切りとなってしまった。内容自体はそれなりに面白いドラマだったが、やはり本家本元には敵わずシリーズ化には至らなかった。


■黒人の時代を迎えたハリウッド

 当ブログでも何度かハリウッドのリベラル化について述べてきたが、ここに至って、イギリスにまで飛び火したエンタメ映画の女性優位化は、大きな物議を醸し出しそうだ。

 少し前にも『クリード2』という映画を観た。『ロッキー』の後釜的な作品として知られている映画でもあるが、かつてのロッキーの宿敵アポロ・クリードの息子が主人公のボクシング映画だ。
 内容的にはベタなスポ根ものだったが、この作品のラストでロッキーがクリードに語った次の台詞が印象的だった。


 「これからはお前の時代だ

 私には、この台詞の裏には、もう1つの違う意味が込められているように聞こえた。

 それは、「これからは黒人の時代だ

 そう言っていたスタローンの瞳はどこか哀しげだった。

 かつて一世を風靡した『ロッキー』というキャラクターは、白人が黒人と闘い、1度は敗れるものの、愛の力によって最後には勝つという感動作だった。


■『ロッキー』が作れなくなったハリウッド

 しかし、ここで考えてみてほしい。
 それは、『ロッキー』という映画が、現代のハリウッドで製作できるだろうか?という素朴な疑問である。あるいは、ハリウッドでなくても、白人が黒人をやっつけるというような映画が昔のように評価されるだろうか?という疑問である。

 おそらく、現代のハリウッドでは『ロッキー』のような映画は製作できないと思う。製作できたとしても大々的なコマーシャルは行われないだろうし、どのような感動作であってもアカデミー賞にノミネートされることはないと思う。
 そんな映画が公開されると、「黒人差別だ!」というバッシングが巻き起こる危険性が有るため、誰もそんなリスクを背負って映画を製作しないはずだ。

 悲しいかな、それが現在の「真っ赤なハリウッド」の姿でもある。ハリウッドの「レッドカーペット」は今や、思想的な意味合いでの呼び名と化しており、その赤いリベラル思想に反する者は踏むことが難しくなっている。

 現代のハリウッドはいつの間にか、アメリカンドリームの象徴とも言える『ロッキー』が製作できない国になってしまった。これも現代のアメリカが抱える大きな病の1つだと言える。

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posted by 自由人 at 20:27 | Comment(0) | 社会問題
2019年07月15日

「NYダウ平均」と「日経平均株価」の差が意味するもの


■27000ドルを突破したニューヨークダウ

 26000ドルを超えた辺りで2回下落に転じた(所謂、ダブルトップ)ニューヨークダウは、3度目のトライで遂に27000ドル台に上抜けた。
 それに引き換え、日経平均株価は一時は24000円まで上昇した(これもダブルトップ)ものの、現在は22000円を超えられずに低迷している。

 通貨単位が違うとはいえ、この2年間のチャートを比較してみると、ニューヨークダウと日経平均株価の差は2000程度で推移していたが、ここにきて大きな差(5000)が開いた格好になっている。(下記チャート図参照)

NYDOW&NIKKEI201907.png

(ヤフーファイナンスより転用)

 日経平均チャートは、アメリカのコバンザメの如く、ニューヨークダウを後追いする形となっているが、今年の春頃から後追いできずに停滞していることが分かる。

 今月の参議院選挙が終了すれば、再度、後追いする形となるのかもしれないが、今回は消費増税問題が重くのしかかっているため、そう簡単にはいかないかもしれない。

■日経平均株価はニューヨークダウを後追いできるか?

 世界中どこの国でも、消費増税などを掲げているような政党は選挙で苦戦するのが定石だと思われるが、そうはなっていないところに日本の政治の病がある。トンデモない愚策を掲げても選挙に圧勝してしまうという現在の状況は決して素直に喜べるものではない。

 2年前に「トランプ大統領在任中にニューヨークダウは3万ドルに向かう」というブログ記事を書いてみたが、このまま行くと、在任中どころか、近い内にニューヨークダウが3万ドルを突破したというニュースを目にすることになるかもしれない。
 しかし、日本の株式市場はコバンザメとして後追いすることができるのかは分からない。
 経済を理解した大統領の一声で、利上げを止めるという判断が即座にできる国の経済は強い。

 日本も消費増税を中止できれば、あるいは日経平均3万円も有り得るかもしれないが、その望みは日に日に薄くなってきつつある。
 日経平均株価が日本の景気を実際に表しているわけではないにしても、かつてのバブル期の最高値である38,915円を超えていかない限り、消費増税などを考えることは時期尚早もいいところで、人間心理が景気に連動しているということが解らない経済音痴政策以外の何ものでもない。

 国を動かしている人々には、「NYダウ平均」と「日経平均株価」の開きが何を意味するのかということを、もっと真剣に考えていただきたいものだ。

【追記】2019.7.15

(BLOGOS転載記事のコメントに対する返答になります)

>日経平均株価(N225)は幾度にも及ぶ裁量的な構成銘柄の入れ替えで連続性を失っており、2019年にあってバブル期の値と比較するのは滑稽の一語です。

 だから、「通貨単位が違う」「日経平均株価が日本の景気を実際に表しているわけではない」と書いています。話を解り易くするためにNYダウと日経平均を利用しているということをご理解ください。

>日本では日立を日経平均から除外するようなもので
>それぐらい新しい企業が伸びているということだ

 新しい企業はダウではなく、大半はナスダックです。

>おっ、政権批判。
>珍しい。

 政権批判と言うよりも、野党批判であり、官僚批判でもあります。

>株はほとんど未経験者なので大したことは言えないですけど。
>今回の消費税の場合、こういうのって「織り込み済み」っていうんですよね。それでこの程度の動きなら問題ないようにも思えますけど。

 もし折り込み済みであれば、15%下げたことになります。折り込み済みでNYダウより5000低いのであれば、NYダウが3万ドルになっても日経平均は25000円なので、3万円超えは難しいということです。
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posted by 自由人 at 13:44 | Comment(1) | 経済
2019年07月13日

「日本的経営は世界の非常識」


■「電波怪獣」竹村健一氏の死去

 今週は日本の芸能界を牽引してきたジャニーズ事務所のジャニー喜多川氏が死去されたことで大きな話題となっていたが、その陰に隠れた形で、日本の言論界を牽引してきた竹村健一氏が死去されたというニュースが出ていた。

 最近はジャニー喜多川氏同様、竹村健一氏もメディアには全くと言っていいほど姿を見せていなかったが、昔は「電波怪獣」と言われただけあって、数多くのメディアに出演されていた。建前ばかりのテレビ界にあって、1人本音を語り、異彩を放つ憎めないキャラクターだった。

 私が竹村健一氏の本を初めて読んだのは学生時代だったと記憶しているが、難しい事柄を平易な文章で説明する文体は読み易く、その後、多くの本を読ませていただいた。ちなみに、竹村氏の場合、口述筆記で有名だったので、文章自体は別人が書いていたのかもしれない。

■「日本の常識は世界の非常識」

 竹村氏が残した有名な言葉に以下のようなものがある。

 「日本の常識は世界の非常識

 戦後、他国とは物理的に隔絶された島国環境にあった我が国では、戦勝国による思想統制の影響によって、戦前の常識は悉く否定されることになり、日本独自の文化というものが多々生まれた。

 最近では「常識を疑え」と言っている識者も大勢いるが、大抵の人は、生まれた環境に既に根付いた常識を疑おうとはしない。どんな不条理な常識であっても空気のように受け入れる人が大勢を占めているので、「日本の常識は世界の非常識」のままであることが多い。

 「憲法9条があるから戦争は起こらない」という日本の常識も、そのまま鵜呑みにしている人も少なくない。
 あるいは、「謝罪は美徳」というような日本の常識も、世界(特にアジア)では通用しない。

■「日本的経営は素晴らしい」という常識

 少し毛色を変えると、「日本的経営は素晴らしい」というのも、日本でしか通用しない常識だとも言える。
 日本では昔から「和をもって尊しとなす」と言われ続けてきたので、その言葉に結び付けて「日本的経営は素晴らしい」とする向きがある。しかし、これは少し曲解されている部分があると思う。
 
 日本では、仕事のできる人間が仕事のできない人間を延々とカバーすることをもって「日本的経営は素晴らしい」と思われているフシがある。
 「仕事のできる人間は文句を言わず、仕事のできない人間の分まで仕事をして、給料もなるべく平等に分けることが尊い」という風に受け止められているような気もする。

 健常者が病人や障害者の分をカバーするのは当然のことだと思うが、単に仕事をしない人間、やる気のない人間の分までカバーしなければならないとなると、「共産主義的経営は素晴らしい」になってしまう。

 共産主義には「各人は能力に応じて働き、必要に応じて受け取る(分配される)」というような考え方があるが、「日本的経営」には、この言葉を実践していると思われる部分がある。
 「仕事をしない人間は能力に応じて働き、必要なだけの報酬を得ることができる」というような仕事をしない労働者の楽園思想が「日本的経営」に入り込んでしまっている。

 聖徳太子が言った「和をもって尊しとなす」とは、世界の常識と成り得る言葉だと思われるが、日本では少し屈折した意味合いで認識・利用されているところがある。

 公平性に重きを置く欧米社会では、仕事のできる人と仕事ができない人には公平な差が開くことは常識として受け入れられている。
 しかし、平等性に重きを置く日本社会では、仕事のできる人と仕事ができない人をなるべく平等に扱うことが尊しとされる。これぞまさに「日本の常識は世界の非常識」の見本だと言えるのかもしれない。


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posted by 自由人 at 07:49 | Comment(0) | コラム
2019年07月09日

外交における「ファイティングスピリット」の重要性


■翳りが見え始めた「文在寅政権」

 ここにきて、文在寅政権にも翳りが見え始めてきたようだ。まさか、何をしても反抗してこなかった、いじめられっこの日本が、韓国に対して経済的な対抗措置を取るなどとは、文在寅氏も夢想だにしていなかったようで、その慌てふためいている姿が垣間見えるかのようだ。

 彼のあの狡猾かつ陰険そうな目を見ていると、毎度、マンガのキャラクターが頭に浮かんでくる。そのキャラクターとは、誰もが知っている『ドラえもん』のスネ夫だ。
 『ドラえもん』の世界に日本を取り巻く国々を当てはめてみると、以下のようなキャスティング(配役)になるだろうか。
(注:家族関係は考えないものとする)

 ジャイアン・・・・・中国
 スネ夫・・・・・・・韓国
 ジャイアンの母・・・アメリカ
 ジャイ子・・・・・・北朝鮮
 のび太・・・・・・・日本
 しずか・・・・・・・台湾

■譬え話「スネ夫とのび太のボクシング」

 慰安婦問題(左ジャブ)でも防御のみ、徴用工問題(右ストレート)でも防御のみ、レーダー照射問題(左フック)でも防御のみと、連打され続けても俯いたまま一向に反撃に転じなかったのび太だったが、ここにきてようやく、右アッパーカットのカウンターを放ち、スネ夫の顎を擦ったと言ったところだろうか。

 まともにジャストミートしていれば、ノックダウン確実だっただけに、スネ夫は「まさか、のび太が反撃するなんて…」と冷や汗を流しながら動揺し、それでもなんとか勝機を見つけようと思案に耽っている姿が思い浮かぶ。

 スネ夫「のび太のくせに生意気だ。審判は反撃しないように注意しろ。」

 のび太「喧嘩ではなく、ボクシングの試合をしているのだから、反撃するのは当たり前じゃないか。」

 スネ夫「・・・(くっそー、のび太のくせに)」

 現状は、こんな感じだろうか。

 のび太(日本)にとって何より重要なことは、反撃する気概が有ることを見せつけることだ。

 両国間にとって、正しいことは正しい、間違っていることは間違っているとハッキリと意思表示することが望ましい。長期的に観れば、それが、お互いの関係を良くする最も有効な手段と成り得る。

 今こそ、韓国に対して日本の「ファイティングスピリット」を見せる好機だ。


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posted by 自由人 at 21:16 | Comment(0) | 国際問題
2019年07月06日

世界遺産『百舌鳥・古市古墳群』の盲点


■同じ風景に見える「古墳」の難点

 ユネスコの世界遺産委員会は、7月6日に大阪の「百舌鳥・古市古墳群」を正式に23件目の世界文化遺産に登録することを決定した。

 これは日本および大阪の地元の人々にとっては喜ばしいニュースであり、日本の古墳が世界文化遺産に登録されることには疑問を差し挟む余地はない。しかし、少し気掛かりなのが、世界中から訪れるであろう観光客にとっては少し問題かな…と思える部分がある。

 実際に現地に行ったことがある人なら解ると思うが、古墳というものは上空から見下ろさない限り、古墳には見えないという難点がある。
 古墳の外堀は泥沼のような池になっており、古墳の中には法律的にも物理的にも立ち入ることができないという縛りがある。
 ゆえに、観光客が訪れて写真を撮影するにも、アングル的には、横から観た森かジャングルのような風景しか撮ることができないので、通常の世界遺産とは少し趣きが違うと感じる人が多いのではないかと思う。

 実際に、私自身も堺市の『仁徳天皇陵』の周囲を徒歩で1周したことがあるが、見える風景はほとんど変わらなかった。

■観光客にとっては「三重難」の古墳

 テレビや雑誌で紹介される時は、ヘリコプターから撮影された上空写真が用いられるので、どこか神秘的なものを感じることができるのだが、横から観ただけでは、鬱蒼とした森か低い山という感じにしか見えないのが残念なところだ。この辺は、「群盲象を撫でる」が如くで、横から観ただけでは古墳の実体は掴めない。
 今はドローンなどもあるので、(宮内庁が禁止していなければ)一般人でも上空から観た写真は撮影することができるのかもしれないが、肉眼では直接的に古墳の形を見ることはできない。

 ピラミッド、万里の長城、自由の女神像、富士山などと違って、古墳というものは全景を見ることができず、全景を写真に収めることもできず、立ち入ることもできないという観光客にとっては三重苦(三重難)のような謎めいた遺産でもある。

 上空から見下ろして撮影できるような建物は景観を損ねるという意味でも建造できないと思うので、観光客向けにドローン撮影でもできるようなサービスを付加した方が良いかもしれない。


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posted by 自由人 at 22:58 | Comment(0) | 文化
2019年07月04日

「リーマンショック級」という縁起でもない言葉


■「税収が過去最高」なら急いで消費税を上げる必要はない

 日本記者クラブ主催の討論会において、与野党の党首達による討論会が行われ、安倍総理は以下のように話されたらしい。

>「安倍政権で税率をこれ以上引き上げることは全く考えていない」
>「今後10年間くらい(消費増税は)必要ない」

 消費税を10%に上げて、社会保障費問題が綺麗さっぱり全て解決するのならそれで良いのだが、実際はそういうわけにはいかないので、この意見はあまりにも場当たり的な発言に思えてしまう。穿った見方をすれば、安倍政権が10年後まで続いていないことを見越した上での逃げ口上にしか聞こえない。

 今後10年間、消費増税の必要が無く、11%以上に上げるつもりがないと言い切るのであれば、なぜ今の段階で10%に上げる必要があるのかという説明も明確にする必要があると思う。

>「アベノミクスの成果などで、税収が過去最高になった」

 2014年度に消費税を5%から8%に上げたことで、自動的に消費税収は5兆円以上は増えただろうし、同じく2014年度からは株式譲渡益課税も10%から20%になった(元に戻した)ので、その税収も2倍になっている。その他諸々の税金アップで、税収が上がらないわけがない。

 安倍総理も「成果などで」と保険をかけているので理解しておられるのだと思われるが、アベノミクスの成果は認めるにしても、それ以外の要因でも税収は増えているのに、なぜ消費税率を急いで上げる必要があるのか皆目検討が付かない。

■時期を誤った消費増税は「経済テロ行為」

 そもそも、アベノミクスによって景気が良くなったことで税収が増えたのであれば、本来、行うべきは減税でなければ辻褄が合わないことになる。景気が良くなっても、悪くなっても「増税」では、選択肢は永遠に「増税」しか無いことになってしまう。「増税」だけで「減税」が無いような政治なら、なんのために政治家が存在するのか分からなくなってしまう。

 税収を上げるためには景気を良くしなければならない。そして、景気が実体と掛け離れて良く成り過ぎれば、今度は税率を上げて、バブル景気の熱気を冷まさなければならない。時には刺激剤、時には緩衝材として使い分けるのが税率というものだろう。

 では、現在の日本の景気はバブル状態なのか?というと、とんでもない。実質的には未だデフレから抜け出せていない状態だ。そんな状況で消費意欲(=景気)を減退させる消費増税を行うなど正気の沙汰ではない。言葉は悪いかもしれないが、景気が悪い状態での消費増税は「経済テロ行為」に近いとさえ言える。

■リーマンショック級の神風は吹くか?

 なぜ、政治家が景気を良くしなければならないのかと言えば、1つの目的は税収を上げるためだ。人々が所得を得れば得るほどに税収は増加し、人々が消費活動を行えば行うほどに税収は増加する。(注:所得税と消費税が0%でなければの話)

 景気を良くするか、税率を上げるか、この2つしか選択肢はなく、どちらを実現できるかが政治家に問われる力量・手腕であって、前者を選択および実現できる政治家こそが有能な政治家だと言える。
 逆に、後者しか選択することができないのであれば、自ら無能な政治家だと認めているようなものだとも言える。
 安倍総理は当初、前者を選択したものの、未だ完全には実現には至っていない。そしてそんな状況で後者を選択しようとしているように見える。安倍総理本人にその気がなくても、多くの有権者にはそう見えてしまう。

 このままだと、本当にリーマンショック級の出来事でも起こらない限り、消費増税は行われそうな雲行きになってきつつある。リーマンショック級の神風が吹くことを願いたいところだが、そうなると、一部の国民には塗炭の苦しみが襲うことになってしまう。
 日本は「言霊 (ことだま)の国」と言われるが、「リーマンショック級」などという縁起でもない言葉を使用したことが大きな災難を招く切っ掛けとならないことを切に願う。


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posted by 自由人 at 21:09 | Comment(0) | 政治