2019年05月30日

【備忘録】ブログ引っ越しの難


■ブログ引っ越し後の感想

 ブログを引っ越して、早2ヶ月間が経過した。

 2019年3月19日に、ココログの大幅なシステムリニューアルがあり、トラブルが発生した。その影響でブログが何日も書けないというような事態が発生し大きな騒ぎになった。
 2ヶ月以上経過した現在でも未だにトラブルで困っているブロガーがいるようなので、長年お世話になったココログには申し訳ないが、早々にブログを引っ越したのは正解だったのかもしれない。(引っ越す前のブログ記事は現在もココログに置いている)

 時々刻々と更新される膨大なデータを扱う巨大なブログシステムを僅か1日で全面リニューアルすることの難儀さは少なからず理解しているつもりなので、当然、なにかしらのトラブルは発生するだろうな…とは予測していたものの、まさか、ここまで長引くことになるとは想定外だった。

 ブログ界では老舗のココログは、2006年のシステムリニューアル時にも大きなトラブルが発生したことがあるらしいが、私は2007年からブログを開始したので、その時のトラブルは知らなかった。

 個人的にパソコン通信をしていた時からニフティに入会していたこともあり、成り行きで、同じニフティ運営のココログを利用させてもらっていたのだが、さすがに何日もブログが書けず、書けてもトラブルが頻発し、レイアウトが崩れて手間がかかる(手作業でhtmlを修正)となっては、ブログ記事を書く時間よりもトラブル対応する時間の方が長くかかるという具合で非常なストレスだった。中にはリニューアルされたことによってブログ記事が消えたという人もいたようだ。

 とにかく、ブログ運用は余計なことを考えずに記事が書けるというシンプルさが1番であり、余計な機能はいらないので、ストレスなく安定して運用できることが望ましい。

■オリジナルドメインの重要性を認識

 オリジナルドメインでブログを運営している人は、ブログの引っ越しをしてもドメインが変わらないので、様々なサイトの再登録は不要だが、私の場合、無料ブログを利用していたので、ブログを引っ越しするとなると、引っ越し以外にもいろんな手間がかかった。

 真っ先に、「BLOGOS」編集部や「すごい経済ニュース」運営者にもサイト引っ越しの連絡を取って、ブログ名の変更とURLの訂正をしていただいた。

 「アマゾン」と「グーグル」にも連絡を取ってみたが、ブログ引っ越しでURLが変更になると、これまで書いてきた記事は関係なくなり、また1からブログ記事を書いて、ある程度の記事数に達しないとアフィリエイトのOKは出ない。(全記事を丸ごと引っ越せばすぐにOKになるのかもしれないが)

 新しく数記事を書いて、アマゾンにもグーグルにも審査していただいたが、どちらも記事数が足りないという理由で審査不合格だった。更に記事数を増やして再審査していただくことで、ようやく審査に合格できた。この間、2ヶ月。(アマゾンよりもグーグルの方が審査基準が厳しかった)

 旧ブログでこれまでに書いた記事(640記事)の実績は全く審査の対象にならなかった。ブログ名も少しだけ変更しているので当然と言えば当然だが、オリジナルドメインで運用していないブログの難点がここにある。
 私の場合、趣味でブログを書いているからいいようなものの、ブログを生業にしているような人であれば、致命的な問題かもしれない。

 ブログ引っ越し後もオリジナルドメインにはしていないが、現在は有料のレンタルサーバーを借りてブログを書いているので、スマホでの閲覧でも余計な広告が入らず、文字コード等も気にせず、スムーズに記事がアップできるので有り難い。

 ブログは、レンタルサーバーを借りて、オリジナルドメインを取って、ワードプレスで運用するのがベストだと言われているが、個人的には、今のところ、余計なことを考えずに気軽に文章を書ければそれでいいと思っている。







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posted by 自由人 at 22:39 | Comment(0) | ブログ
2019年05月29日

「川崎児童殺傷事件」における自殺同情論の是非


■殺人者の自殺同情論は成立するか?

 神奈川県川崎市でスクールバスを待っていた小学生達が、包丁を持った51歳の男に次々と襲われ19人が死傷するという凄惨な事件【川崎児童殺傷事件】が発生した。

 現段階では、犯人の名前が判っている程度で、どのような事情で凶行に及んだのかは不明だが、「計画的な自殺だった」という意見も出ているようだ。

 犯人がどんな悩みを抱えていたのか、自殺を考えるに至った動機や背景も謎のままだが、世間では犯人が自殺したことが殊更注目され、中には、自殺した人間を責めるのは控えた方が良いというような意見も出ているようだ。

 この事件の犯人が結果的に自殺したことは間違いのない事実だが、遺書的な物が発見されていないことを考慮すれば、無関係の人々を殺した後で自殺することを計画していたのかどうかまでは判らない。多くの人を殺傷してしまったので、破れかぶれになって自殺に及んだということも考えられる。
 もし、そうであった場合、自殺同情論は成り立たなくなる。

 1、自殺を考えた上での無差別殺傷事件

 2、無差別殺傷事件を起こした後に思い立った自殺

 この2つが違うことは誰にでも解ると思う。

■「自殺」と「殺害」の因果関係の有無

 話を分かり易くするために、喩え話で考えてみよう。例えば、いじめを苦にした自殺というものをケース別に考えてみると、

 (A)いじめを苦にして自殺した いじめられっこ

 (B)いじめを苦にして、いじめっこを殺害した後に自殺した いじめられっこ

 (C)いじめを苦にして、無関係の人間を殺害した後に自殺した いじめられっこ

 この3つのケースの場合、Aの場合は、同情するしかないと思う。

 Bの場合も、罪は犯してはいるが同情したくなる。

 では、Cはどうだろうか?

 Cの場合、いじめられていたことに同情心は抱いても、いじめとは全く無関係の教師や生徒を八つ当たりで殺害したのであれば、同情することはできないと思う。この場合、同情するべきは、何の関係も無いのに殺された人々の方ではないだろうか?

 今回の事件が(A)〜(C)のどれに該当するのかと言えば、もちろん(C)である。
 自殺に及んだ原因と、殺害に及んだ結果に因果関係が無い場合は、残念ながら、自殺同情論は成り立たないと思う。

■包丁を持った知らない人が襲いかかってくれば、どうするか?

 今回の事件を起こした犯人に、どのような自殺をする原因があったにせよ、その原因と全く無関係の人々を殺傷したことに関しては全く同情の余地が無い。

 このことは、自分自身が被害者になった場合を想定すれば、明白だと思う。
 自分自身が突然、全く面識もない人間に襲いかかられ、包丁で刺されて重傷を負った場合、あなたは、その犯人に同情することができるだろうか? その犯人が悩みを抱えて自殺を考えていただろうことを慮り、「犯人を責めないでください」と同情することができるだろうか? もし「できる」と言うならご立派だが、そんな人がどれだけいるのだろうか?

 包丁を持った知らない人物が襲いかかってくれば、誰もが恐怖感を抱き逃げるのではないだろうか? 逃げずに受け止めるというなら、これまたご立派だが、そんな人がいるとは到底思えない。

 いじめっこに対して、いじめられっこが包丁を持って襲いかかってくれば、その原因が自分自身にあるだろうことをいじめっこも察するだろうけれど、全く知らない人物が襲いかかってくれば、いかに性悪ないじめっこでも退散するだろう。全く関係のない人であれば尚更だ。

 殺人者に対する同情というものは、その犯行の原因と結果が理解できてこそ成立するものであり、その殺人者が自殺したことによって結果的に生じるものではない。
 いかなる事情があろうとも、全く無関係の人達を殺傷した罪は許されることではない。
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posted by 自由人 at 21:55 | Comment(0) | 社会問題
2019年05月27日

「風邪薬」の正体とは?


■風邪を治す特効薬は存在しない

 このところの寒暖差の激しい異常気象のせいもあるのか、久しぶりに風邪をひいてしまった。熱は微熱で少し咳が出る程度なので、いつも通り、会社に行き、病院にも行っていない。
 一応、市販の風邪薬を飲んではいるものの、効いているのか効いていないのか判らない程度の軽い風邪といったところだろうか。

 ブログが書けないほどの風邪ではないので、この機会に風邪についての豆知識でも書いておこうと思う。

 まず初めに、風邪を治す特効薬というものは世の中に存在していない。

 こう言うと、「えっ?!」と驚く人がいるかもしれない。

 病院に行って処方される風邪薬も、市販の風邪薬も、残念ながら、風邪のウイルスを退治する薬ではなくて、風邪の症状を和らげるという意味での薬である。

 咳を止める薬、熱を冷ます薬、鼻水を抑える薬など、風邪の諸症状を抑えるのが、現在の風邪薬の役割であって、風邪のウイルスを退治することはできない。その証拠に、風邪の特効薬が発明されれば、ノーベル賞ものの快挙だとも言われている。

 「俺はいつも風邪薬を飲んで風邪を治しているぞ!」と反論する人がいるかもしれないが、残念ながら、風邪を直接的に治す薬が無いことは医者も認めている厳然たる医科学的事実である。

 では、風邪はなぜ治るのかと言うと、風邪をひいた本人の自己免疫力が風邪を治している。これも厳然たる事実である。

 発熱というものは、風邪のウイルスと戦うために、身体が自ら体温を上げている状態であり、ウイルスが熱を出しているわけではない。人間の免疫力は体温が上がることで活発化するため、身体の免疫細胞がウイルスとの臨戦態勢になっていることを意味している。
 こんなことは誰もが知っているであろう初歩的な医療事実だが、中には知らないという人もいるかもしれないので、念のため、書かせていただいた。

■風邪をひいたら風呂に入ってはいけないのか?

 昔から、「風邪をひいている時は風呂に入ってはいけない」と言われることがある。私も子供の頃から何度も言い聞かされたが、個人的には、これも疑わしいと思っている。

 高齢者や乳幼児であれば、高熱がある時は(体力を奪われるので)風呂に入ってはいけないと言うなら理解もできるのだが、体温を上げることが風邪のウイルスと戦うために必要なことだと考えれば、通常は風呂に入って身体を少し温めた方が風邪の治りも早くなるのではないかと思う。

 解熱剤というのも、40度近い熱があるならともかく、37〜38度程度の熱なら、無理に熱を下げない方が風邪の治りも早くなると思われるし、実際にそう言っている医者も大勢いる。
 無論、こちらも高齢者や乳幼児であれば話は別だが、普通の健常者であれば、熱を出し切った方が治りも早いと思う。私自身、風邪を引いて熱が出ても風呂に入り、解熱剤は飲まないようにしている。

■「風邪をひいたら、1に睡眠、2に○○○」の意味

 さらに付け加えると、風邪に抗生物質(抗菌薬)は効かない。
 これも知っている人が大半だと思っていたが、私の周りでは知らない人の方が多いようだ。
 「風邪に抗生物質は効かない」という真実を言うと、《何を馬鹿なことを言っているのか…》と怪訝そうな目で見られることが多いので、この場を借りて、書いておこうと思う。

 風邪を引いて病院に行くと、風邪薬だけでなく、抗生物質まで処方されることがある。以前、私もこれに対し何の疑問も抱くことなく飲んでいたことがある。
 今でも、病院で「抗生物質をもらったからもう大丈夫だ」と安心して帰路に着く人がいると聞くが、残念ながら、抗生物質は風邪のウイルスには効かない。これも厳然たる事実である。

 黄色ブドウ球菌などに感染した扁桃炎等なら抗生物質は有効な治療手段と成り得るが、風邪のウイルスは細菌ではない。抗生物質が効くのは細菌のみであり、ウイルスには無効だ。

 おそらく、風邪ではなく、細菌が原因の肺炎だった場合などを考慮して、保険として抗生物質が処方されているのだと思われるが、普通の風邪には抗生物質は効かない。ここでは省略するが、抗生物質には様々な副作用があるため、軽い風邪程度で頻繁に飲むのは考えものだ。

 「風邪をひいたら、1に睡眠、2に○○○(薬の名前)」と言われる。

 このキャッチフレーズからも分かる通り、薬よりも睡眠の方が重要だということは、結局、風邪は自分自身の免疫力を高めて治すしかなく、風邪薬は、その助けをしてくれる補助的な存在でしかないということでもある。


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posted by 自由人 at 22:24 | Comment(0) | 医療
2019年05月25日

「リーマンショック級」の消費増税


■自傷行為としての「消費増税」

 大幅な減税政策によって景気の良いアメリカと、景気が悪い状況でも消費増税を実施しようとする日本、同じ土俵に立っている先進国同士で、どうしてこうも違うのだろうか。

 これまでの消費増税の実施は、以下のようになっている。

 1989年 消費税3%
       竹下内閣(自民党)で決定し、竹下内閣(自民党)が実施

 1997年 消費税5%
       村山内閣(社会党)で決定し、橋本内閣(自民党)が実施

 2014年 消費税8%
       野田内閣(民主党)で決定し、安倍内閣(自民党)が実施

 2019年 消費税10%
       野田内閣(民主党)で決定し、安倍内閣(自民党)が実施予定


 こうやって見ると、自民党は貧乏くじを引かされた格好となっているが、さすがに今回の消費税10%はインパクトが大きく、自民党にとってはヘタをすると党の存続にも影響を与えかねない自傷行為とも成り得る。

 なんせ、消費税を上げると景気が悪くなることが100%決定しているようなものなので、余程の景気刺激策を打たない限り、景気が良くなることは有り得ない。軽減税率で1%分の増税を相殺するというような姑息な政策では、ほとんど効き目は無いと思える。

 そもそも、前回の消費増税時は、アベノミクスによって、ある程度は景気が良くなったと言われていた時代だった。そんな時であったからこそ、消費税を上げることにも正当性を感じる人もいたのではないかと思う。実際は、あまりにも時期尚早な判断だったと思うが、そう思わなかった有識者も大勢いた。

 しかし今回は、明らかに景気が悪化している状況での消費増税となるので、全く正当性が感じられないことは素人目にも判ると思う。

■増税を許す“前提条件”の変化

 「(景気が良い状態であれば)リーマンショック級の出来事が起こらない限り、消費税を上げる。

 それが、暗黙の約束事だったと思う。つまりは、以下の「and条件」だ。

 【景気が良い】and【リーマンショック級の出来事が起こらない】

 しかし、現状では次のようになっており、「and条件」ではなく「or条件」のようになっている。

 「(景気が悪い状態でも)リーマンショック級の出来事が起こらない限り、消費税を上げる。

 【景気が良い】or【リーマンショック級の出来事が起こらない】

 これは、あまりにも不自然ではないだろうか? なぜ、景気が悪い状態で、さらに景気が悪くなる増税政策を実施しなければならないのだろうか?
 社会保障に財源が必要だと言っても、増税によって景気が大幅に落ち込めば、その財源すら失われることになり、増税とのダブルパンチを喰らい全く無意味な政策になってしまう。

■支離滅裂で本末転倒な「消費増税」

 景気が良い状態であれば、増税を行っても、もしかすると、景気はそれほど悪くならないかもしれない。「リーマンショック級」以前に、景気が良いことが、唯一の増税を受け入れる前提条件ではなかったのだろうか?

 その前提条件が崩れてしまったのであれば、以下のように言うべきだと思う。

 「景気が悪い状態なので、リーマンショック級の出来事が起こらなくとも、消費税を上げることはできません。

 増税を行っても景気が良くなるという“希望”が全く無いのであれば、先に景気を良くすることが必要なのではないのだろうか? 景気を良くするためにはどうすればいいのか? アメリカのトランプ大統領は景気を良くするために大幅な減税を行い、結果を出している。本来なら、それを見習うのが日本が選択するべき道ではないのだろうか?

 多くの国民にとっては、今年の消費増税こそが「リーマンショック級」の出来事だと言える。

 景気が良かろうが悪かろうが「リーマンショック級」の出来事が起こらなければ「リーマンショック級」の消費増税を行い、その結果は確実な不景気。これでは支離滅裂であり、本末転倒と言わざるを得ない。


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posted by 自由人 at 23:21 | Comment(0) | 経済
2019年05月23日

現代の「言葉狩り」は中世の「魔女狩り」


■「魔女狩り」から「言葉狩り」へ

 12世紀から17世紀にかけて全盛を極めた「魔女狩り」は、奇しくも地動説を唱えたガリレオの登場によって下火になっていった。
 当時は天動説というものが世の常識となっていたため、「地球が動いている」というような言説は、文字通り、天地がひっくり返った妄説とされ、ガリレオは異端審問により社会的に抹殺された。

 現代では、流石に「魔女狩り」というものは無くなったものの、人々の無知に付け込み、「魔女狩り」を模したかのようなことが未だに行われているかに見える。

 現代における「魔女狩り」は「言葉狩り」と呼ばれている。現代の日本でも、政治家が話した些細な言葉を「失言」だとして針小棒大に報道・追及し、失言者を社会的に抹殺することが正しいことであるかのような空気が社会に充満しつつある。

 こんなことは、ほんの10年、20年前には無かったことだと思われるが、この社会の変化を本当に良いことだと認めることは非常に危険なことだと思われる。

 数百年後の人々は、我々現代人の「言葉狩り」を観て、どう思うだろうか? 
 我々現代人が、かつての「魔女狩り」というものを忌み嫌うのと同様、現代の「言葉狩り」を忌み嫌うようになるのではないかと思う。
 ほんの些細な発言を、よく吟味することなく、闇雲に否定しまくり、失言者の社会的生命を抹殺することを良しとする狂気の集団ヒステリー社会が21世紀初頭に確かにあったことを嘲笑う時がくるのかもしれない。

■21世紀に開いたパンドラの箱

 いつの時代でも、「魔女狩り」の空気に逆らうことなく、ただ、その場の空気に踊らされるだけの人がいる。彼らには、自らを客観視できないという共通点がある。今現在、目の前で行われていることを歴史的視座(過去と未来の視点)から俯瞰できないという共通点がある。

 一方で、いつの時代でも「魔女狩り」の危険性を認識できる人も大勢いる。しかし、個人が情報を発信することができなかった時代には、「魔女狩り」を主導する側の声だけが大きく、個人の声は掻き消され、誰にも届かなかった。

 21世紀、情報のオープン化によって巻き起こった「言葉狩り」の猛威は、皮肉にも、同じ理由によって、下火となっていくのかもしれない。
 現在は、その端境期にあるがゆえに、あらゆる禍いが同時多発的に顕在化しているとも考えられる。

 21世紀に開いたパンドラの箱から飛び出した「言葉狩り」の猛威が、なるべく早い時期に収まることを願わずにはいられない。





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posted by 自由人 at 22:45 | Comment(0) | 社会問題
2019年05月19日

「戦争」という言葉アレルギー


■「戦争」よりも「戦争」という言葉を嫌う国

 北方領土の返還問題で、日本維新の会の丸山穂高氏が「戦争」という言葉を用いたということで、総バッシングされている。自民党からは非難決議案、野党6党からは辞職勧告決議案を提出され、八方塞がり状態となっている。

 問題となったのは、既に何度も報道されている次の発言。

>「団長は戦争でこの島を取り返すことには賛成ですか? 反対ですか?

 しかし、酔っぱらった議員の口から出た一言で、まさかここまで大事になるとは意外と言うか、平和ぼけした日本らしいと言うか、ここまでくるともう政治家は「戦争」という言葉自体を禁句にした方がよいのではないか?とさえ思えてくる。

 「戦争」そのものを嫌うのではなく、「戦争」という言葉そのものを嫌うという意味で、現在の日本は「戦争」アレルギーではなく、「戦争」という言葉アレルギーになってしまっている。

■「野党主義」になっている日本の政治

 この状況を傍から眺めていると、「また始まったか…」というのが率直な感想であり、おそらく、丸山議員の語った言葉よりも、この異常なまでのバッシングにこそ恐怖感を抱いている人の方が多いのではないかと思える。
 その様はまるで「池に落ちた犬はたたけ」の如くであり、観ていて、あまり気分の良いものではない。

 今回の「戦争」発言を与党の総理大臣が行ったというなら問題になっても仕方がないと思えるが、戦争遂行能力を持たない野党の1議員が酒の席で述べただけなら、その言動を詫びた上で、議員を続けるべきかどうかを有権者の判断に委ねれば済む問題ではないかと思う。有権者が政治家として相応しくないと思えば選挙で投票しなければいいだけのことではないのだろうか。

 しかし現状を観ていると、まるで政治家を続ける判断をするのは、有権者ではなく、我々野党だと言わんばかり。これでは、民主主義ではなく、野党主義になってしまっている。
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posted by 自由人 at 15:59 | Comment(0) | 政治
2019年05月16日

『空母いぶき』インタビュー問題の違和感


■佐藤浩市氏インタビューの「僕らの世代」が意味するもの

 来週公開される大作映画『空母いぶき』に総理大臣役で出演している佐藤浩市氏のインタビューが大きな話題になり物議を醸している。
 原作における総理大臣のキャラ設定が、今回の実写映画化にあたり、ストレスに弱い総理大臣に変更されてしまったらしく、それが今回の騒ぎになった、そもそもの発端であるらしい。



 よく話題の映画が上映される直前に、タイミングよく出演キャストのスキャンダルネタ(交際発覚など)がリリースされるようなことがあるので、今回の話題も、穿った見方をすれば、映画公開前の壮大な宣伝になったとも受け取れてしまうのだが、それは扨措き、そのインタビューで佐藤浩市氏は次のように述べられたらしい。

>「(総理の役は)最初は絶対やりたくないと思いました。いわゆる体制側の立場を演じることに対する抵抗感が、まだ僕らの世代の役者には残っているんですね。

 この台詞の中にある「僕らの世代」という言葉は、佐藤浩市氏の年齢から推察すると、「学生運動世代」ということになるのだろうか。体制側に反感を抱くことが当然の時代に生まれた世代なので、体制側の総理大臣を演じるのは抵抗があるということなのだろうか。
 あるいは、この映画は、中国(映画では架空の敵国)との戦闘を描いたものなので、そんな映画の総理大臣を演じると、今後の俳優活動にリスクが付いてまわる可能性があるということで、リスク回避のために、お断りを入れたということなのだろうか。

 そういった邪推も扨措き、ここで問題にしたいのは、佐藤浩市氏が語った「体制側」という言葉である。

■戦後日本の「体制側」における誤解

 「体制側」とは、「権力を握り現在の社会を支配している側」のことを意味している。
 おそらく、佐藤浩市氏は現在の自民党、ひいては安倍総理が体制側の人間と思っておられるのだと思われるが、これは少し誤解があるのではないかと思う。

 もし、安倍総理がバリバリの体制側の人間なら、消費税の増税も躊躇することなく行うだろうし、憲法の改正も遠慮することなく強引に行うだろう。
 しかし、実際はどうかというと、消費税は本音では上げたくないという姿勢が透けて見えるし、憲法も、反対派の批判が恐くて、なかなか実行にまで漕ぎ着けることができずにいるように見える。はたして、独裁体制として忌み嫌われる体制側に、そんな弱腰の指導者がいるものだろうか?

 本来、「体制側」というのは、現状の社会システムを、既得権益を守るがために頑として変えようとしない組織や勢力のことを指すのではないかと思う。
 そう考えると、憲法に限って言えば、憲法を変えることに反対している護憲派(護権派)こそが体制側とも言える。安倍総理は、ある意味、弱腰の改革派の側であって、バリバリの体制側とは言えないのではないだろうか。

 日本では、戦後の歴史的(思想的)な捻れによって、与党の政治家になったからといって、必ずしも体制側の人間とは言えない部分がある。
 強権的な体制側の総理であるならば、憲法の改正についても、消費増税の延期についても優柔不断な態度を見せる必要は無いように思われるのだが…。

 この映画に登場する総理大臣も、ストレスによる緊張で下痢をするという設定に脚色されたらしいので、おそらくは弱腰の総理大臣として描かれているのだろうと思う。
 緊張で下痢をする体制側の人間、そんな独裁者とは程遠い人物を演じることで抵抗感は少なくなったのだろうか。

 佐藤浩市氏は同インタビューで以下のようにも述べておられる。

>「僕はいつも言うんだけど、日本は常に「戦後」でなければいけないんです。戦争を起こしたという間違いは取り返しがつかない、だけど戦後であることは絶対に守っていかなきゃいけない。

 この映画に登場する総理大臣も、このような考えを持った指導者として描かれているのだとすれば、幸か不幸か、映画を観に行くタイプもガラッと変わってしまうのかもしれない。
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posted by 自由人 at 21:55 | Comment(0) | 政治
2019年05月14日

アバウト過ぎる「エンジンオイルの交換時期」


■エンジンオイルは3,000km走行する度に交換?

 昔は、「車のエンジンオイルは3,000km走行する度に交換しなければならない」と言われていた。

 私自身、数年前までは最寄りのガソリンスタンドでエンジンオイルを交換してもらっていたが、先の言葉を信じて、真面目に3,000km、遅くとも4,000km走行するごとにエンジンオイルを交換していた(2回に1度は、オイルエレメントも交換)。
 しかし、そのガソリンスタンドの対応に少し疑問を抱くことがあったので、数年前からは某有名カー用品店でエンジンオイルを交換するようになった。

 その時に判ったことは、ガソリンスタンドのようにオイルの品質(高級オイルや標準オイル等)だけで分類されているのではなく、車種ごとに適合するエンジンオイルが分けられているということだった。
 カー用品店には適合オイル表というものが置かれてあるので、それを見て自分の車に対応しているオイルを選択し、自分でレジに持って行くといった具合(交換作業はネットで予約している)。
 ガソリンスタンドでは全てお任せだったので、当初は大きな違いだな…と思ったことを記憶している。

■正しいエンジンオイルの交換時期とは?

 さて、タイトルの「エンジンオイルの交換時期」の件だが、当時、ネットで調べてみると、車種によって交換時期が異なることが判った。走行する道路の状態(コンディション)によっても違ってくるらしいが、トヨタのホームページで確認してみると、現在でも次のように書かれている。

交換時期の目安

 ガソリン車(ターボ除く)…15,000km、または1年

   シビアコンディションの場合は、7,500km、または6ヶ月

 ガソリンターボ車…5,000km、または6ヶ月

   シビアコンディションの場合は、2,500km、または3ヶ月


 「シビアコンディション」というのは、消耗品の劣化は使用条件によって変わってくるというもので、悪路や坂道などの走行では劣化が早くなるという意味で特別に設けられた数値である。

 私の場合、トヨタのガソリン車に乗っており、主に普通の一般道路を走行しているだけなので、「シビアコンディション」には当て嵌まらないと思う。ということは、1回のオイル交換で15,000km走行できるということになる。

 そうなると、これまで「次回の交換目安+3,000km」というシールを貼っていたのは何だったのか?と思えてくる。現在でも「次回の交換目安+5,000km」というシールが貼られている。

 15,000km÷3,000km=5

 15,000km÷5,000km=3

 ガソリンスタンドでは通常の5倍、カー用品店でも通常の3倍も早い時期にオイル交換が勧められていることになる。
 エンジンオイルが汚れると燃費が少し悪くなるそうなので、最近は、保険も兼ねて、7,000〜8,000kmで交換するようにしているが、当然、何の問題も発生していない。そう考えると以前はエンジンオイルに2倍の費用をかけていたことになってしまう。早く交換するに越したことはないのかもしれないが、このアバウトな制度に、世間のドライバー達はどう対応しているのだろうか?
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posted by 自由人 at 21:11 | Comment(3) | ライフ
2019年05月12日

『左翼老人』を読んで。


■「左翼」が多く成り過ぎた国

 自国の憲法が時の経過とともに形骸化し、その時代にそぐわないと判断されれば、躊躇することなく憲法の内容を更新する。それが世界共通の常識でもあるが、その中にあって日本だけが、いつまで経っても憲法を更新できずにいる。

 自国で作った憲法であるならまだしも、占領軍によって作られた敗戦時の憲法を有り難がり、神様から啓示された聖書でも崇めるが如く、一言一句変えてはならないという教条主義に陥っている人もいれば、単に既得権益を護りたいというだけの人もいる。そして、ただ、空気に流されているだけの人も大勢いるかに見える。

 憲法に限った話ではないが、一般人の感覚からすれば、日本には未だに温存されていることに矛盾を感じざるを得ないようなシステムや制度が多々あるように思われる。それらが、なぜいつまで経っても変えることができないのかは、偏に、日本には「左翼」が多く成り過ぎたからだとも言える。

 先日、『左翼老人』(森口 朗著)という新書を購入して読んでみた。「左翼」という言葉をズバリ使用している本というのも最近では珍しくなくなったが、著者は、思想的な左翼の位置付けをこう書かれている。

 右翼⇔左翼//左派⇔中道⇔右派

 この位置付けでは、右翼と左翼は思想的に行き来が可能だが、左派・中道・右派とは混じり得ないということになっている。

■公職追放によって誕生した「左翼老人」

 本書には、なるほどな…と思える指摘が数多くあった。以下に何カ所か抜粋させていただくと、

 >政府や自治体の政権を有する人々は、左翼老人の活動と票により倒れることを恐れて毅然とした対応が取れないのです。国会で真面目な審議をするよりも政府の足を引っ張る方が左翼老人は喜ぶので、野党はそれにおもねっているのです。

 >この頃(昭和の時代)は、今では考えられないことですが、「教養人は左翼政党を支持し、無学な者が自民党を支持する」という空気が日本を支配していました。今でも比較的教養のある中高年が、ついつい左翼政党に肩入れしてしまうのは、この時代の後遺症です。
※( )内は筆者追記

 >デモクラシーが機能するためには議論と妥協が不可欠です。なぜなら、絶対的な正義はないことがデモクラシーの前提だからです。しかし、左翼は政治を議論ではなく闘争と捉えているので妥協は敗北でしかありません。

 >高校の政治経済だけでなく大学の教育でさえも資本主義と共産主義が対立的なものと教えています。しかし、資本主義と共産主義は決して対立的なものではありません。なぜなら、資本主義は人類の歴史の中で徐々に形成された現在の経済の仕組みであるのに対して、共産主義はマルクスの思想とそれを信じた人々が創った人工国家の理念の中にしか存在しない、つまりこの世に一度も存在したことのない妄想だからです。

 現代の民主主義というものが多数決で成り立っている以上、政治家や評論家もまた、数に支配されてしまう傾向にある。特にそういった職業を生業としている人々は、正しいことを言っても評価されず、間違ったことを言えば評価されるということで、自らの思想を偽らなければ商売が成り立たないという哀しい現実を背負うことになる。

 こういった倒錯した社会は、敗戦後に行われたGHQの公職追放によって誕生したとも言える。まともなことを言う人々が追放され、代わりにデタラメなことを言う人々が重宝された時代、この時代こそが現在の日本の悲劇を産んでしまった元凶(原型)であり、その誤った時代の思想を信じ込んでしまった人々が、著者の言う「左翼老人」ということなのだろうと思う。





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posted by 自由人 at 13:56 | Comment(0) | 読書
2019年05月10日

被害者をセレブとして扱うパパラッチの罪


■矢面に立たされる被害者(保育園)

 先日、琵琶湖畔の丁字路交差点で車の接触事故があった。これだけならよくある交通事故としてほとんど報道もされなかっただろうけれど、運悪く、接触した車が歩道を散歩していた保育園児達の列に突っ込み、多数の園児が交通事故の巻き添えになったことで、大々的な報道がなされた。

 最近は、高齢者による車の暴走事故が多発しているので、今回の事故も事故発覚当初は、また高齢者による暴走事故かと思われた。しかし、その後、事故を起こしたのは、62歳と52歳の女性だったということが判明した。

 ところが、ニュース番組では、保育園側がマスコミ報道の矢面に立たされ、あまりのショックに泣き崩れる保育園長の姿がお茶の間に映し出されていた。
 ニュースの締めくくりでは「保育園側は明日の散歩を控えるようにする」というようなナレーションが入り、まるで、交通事故が発生する可能性のある道路を散歩していた“保育園側”に問題が有るかのような報道だった。

■被害者である保育園側に保護責任は無い

 これは不運な事故としか言い様がないが、誰が悪いのかと言えば、おそらくは誰もが、右折しようとした車を運転していたドライバーだと思うだろう。実際、事故を起こした当の本人も「右折時に前方をあまり見ていなかった」というようなことを供述しているらしい。

 右折しようとしたのは52歳の女性の方だったので、まさか高齢を理由とした対策案を提示するわけにもいかないため、別の対処法が検討されるのだろうと思われる。しかし、日本国中にガードレールを作ればいいというものではないし、車の通行する道路を散歩してはいけないというのも無理がある。

 今回の事故の場合、どう考えても注意しなければならないのは、車を運転しているドライバーの方であり、被害者である保育園側は、注意のしようがないし、注意していたとしても事故に巻き込まれないという保証もない。非が有るとすれば、殺傷凶器にも成り得る自動車に対する認識が少し甘かったという位のことだろう。
 「散歩しなければ交通事故に巻き込まれずに済んだ」などというのは、場当たり的な結果論でしかなく、何の改善策にも繋がらない。
 保育園側は園児達と同様、あくまでも被害者であって、子供を預かっていたから保護責任が有ると言うのでは、筋違いである。

 滋賀県大津市と言えば、何年か前に中学生の「いじめ自殺問題」で騒ぎになった所でもあるが、いじめによる自殺報道でも、毎度、責任を追及されるのは加害者であるいじめっ子ではなく、生徒を預かる学校の校長ということになっている。
 これと同じ理屈(保護責任)で保育園の園長が責められたのだとすれば、明らかに不自然だと言える。

■他人の不幸を見て喜ぶ社会からの脱皮を

 交通事故を起こした女性も、故意に交通事故を起こしたわけではないだろうから、あからさまに加害者として責め立てるのは問題かもしれないが、少なくとも、保育園のスタッフよりも責任が重いことだけは間違いない。

 しかし、今回のような事故は、スマホを見ながら運転しているような人であれば、誰もが起こす可能性のある事故でもある。この悲惨な交通事故から反面教師として我々が学ばなければならないことは、よそ見をせずに真摯に車を運転することを自らに戒めることだろう。
 「罪を憎んで人を憎まず」、単純なようでも、それが最も有効な交通事故回避策だと思う。

 マスコミは、視聴率を稼げる構図であれば、凄惨な事故現場を映そうが、悲しみで途方に暮れている被害者の家族を映そうが、何の責任も無いと言わんばかりで、被害者をセレブとして扱うパパラッチのような姿勢には批判も噴出しているようだ。
 しかしながら、それは“他人の不幸を見て喜ぶ”という民度の低さがそもそもの原因とも言えるので、行き過ぎた無意味な報道には、良識ある国民が「ノー」を突き付けていかなければ、いつまで経ってもこの状況は変わらない。



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posted by 自由人 at 20:34 | Comment(0) | 社会問題